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八朔(はっさく)

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「八朔」とは、旧暦の8月1日を指します。
現代の暦では8月下旬〜9月頃に当たり、
令和4(2022)年は8月27日の土曜日になります。
昔から豊作祈願の行事が各地で催されたり、
「田の実」が「頼み」に通じることから、
よく頼み事をする相手に贈り物をしたり、
江戸時代には正月に次ぐ特別な祝日でも
ありました。
 
 

八朔とは?

「八朔」とは、八月朔日(ついたち)の略で、
旧暦8月1日のことです。
この日には、本格的な収穫を前に
「豊作祈願」のために
様々な行事が行われてる地域があります。
 
また、「二百十日」「二百二十日」
「八朔(旧暦8月1日)」は
昔から強い風の吹く日だったようで、
「農家の三大厄日」と言われ、
「八朔」には各地で風の難を受けないように
祈願する祭りが行われました。
 

風鎮祭・風祭

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旧暦8月1日は、新暦では9月上旬に当たります。
この時季は稲が開花・結実する大事な時ですが、
台風が相次いで襲来し、
農作物が被害を受けてしまうことが
よくあります。
 
特に、「二百十日」「二百二十日」
「八朔(旧暦8月1日)」は
「農家の三大厄日」と言われ、
「この風の難を受けないように」
「豊作でありますように」と祈り、
「風鎮祭」「風祭」といった名前の
お祭りや奉納祭が行われています。
 

豊作祈願

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西日本では、「穂出し」を祈願する行事を
「たのむ」「たのみの祝い」「たのもの節供」などと言います。
 
「田誉めの節句」とも呼びます。
八朔の日に御神酒を下げて自分の田圃に行き、
ちらほら出始めている走り穂を眺め、
「良く出来ている」などと豊作ぶりを誉めて喜び、
そして御神酒を振り撒き、
自分も畦に腰を下ろして御神酒をいただいて
帰って来ます。
 
九州北部では、七夕の笹のようなものを立てて
田の畔で「作頼みを祈る」風習があります。
 
初穂を田の一隅や家の竈神などにかけて供え、
榊にその年に実った稲穂をかけた
「穂掛榊」(ほかけさかき)
焼米などとともに神前に供えた後、
神輿を船に載せて「一つ石」という神石に
渡御して豊作豊漁を祈り、
帰路は各町内の屋台の先導で還御する
「穂掛祭」を行うところもあります。
 

● 田ほめ   :田の稲に誉め言葉をかける

● 作頼みの祈り:田の神様に豊作を願う行事

● 穂掛祭   :稲の初穂を掛ける行事

 

八朔休み

昔、関西辺りでは、
「八朔を休日」としていたそうです。
田植え始まりから許されてきた「昼寝の習慣」は「八朔」の日までとされ、
その次の日から「夜なべ仕事」を始めました。
 
大阪では「昼寝」のことを
「日の辻休み」と言ったことから、
旧暦の「八朔」は「日の辻の取り上げ休み」と称していたそうです。
 
「八朔」の日は、
昼寝を取り上げられたり、
夜なべが始まったりでしたから、
奉公人にとっては嬉しくない日でした。
辛い思いでこの「八朔」の休日を迎えたことから
「泣き節句」と言ったり、
ふるまいの麦饅頭を「泣き饅頭」、
小豆飯を「涙飯」と呼んだりしたようです。
 

田の実の節句

 
「八朔」は早稲が実る時期に当たり、
古代・中世には、早稲の「田の実」を
天皇などに献じた風習があったようです。
農家では、その年初めての稲の実りを、
田の神様に供え、お世話になった人へ送り合う
習わしがありました。
これが転じて、武家などでは
主君と家来が贈答品を贈り合い、
主従関係を確かめる慣習になったとか。
「田の実」(たのみ)
「頼み」(たのみ)の語呂合わせで、
八朔を「田の実の節句」とも言いました。
 
徳川家康が天正18(1590)年「8月朔日」に
江戸に入場したところから、
江戸時代になると、
「八朔」は幕府の重要な祭日となり、
大名や旗本などは総登城してお祝いをする日に
なりました。
この日、大名や旗本は裃や白帷子に身を包み、
将軍にお祝いを述べ、太刀などを献上しました
(「八朔御祝儀」)。
この江戸城の「八朔御祝儀」にあやかって、
花街の吉原では
遊女達が白無垢の小袖に衣替えし、
「花魁道中」に繰り出しました。
これは「八朔の雪」とか「秋の雪」と称されています。
 
 

馬形(うまがた)

全国的には、農耕に関わりの深い行事が行われる日となっている。田畑を巡り作物がよく実るよう祈願したり、出始めた稲穂を1束刈って神前に供えたり、二百十日をひかえ風鎮祭を行ったりしている。タノモ(田の面)のタノミ(田の実・稲穂)の充実を頼む日であったと考えられる。  八朔人形は、この八朔の日に、その年の子供が生まれた家へ親しい人たちから贈られた。タノモ人形ともいう。贈られた家では、雛人形や五月人形と同じように飾り、子供の無事な成長を祝った。この人形の贈答は、萩地方においては盛んに行われていたようである。  この日何かを贈答するということは全国各地で見られる。贈答により、労働力の援助を頼み合ったり、何かを願ったりしたものと思われる。
瀬戸内地方などでは、「八朔」に馬形を飾る習わしがあります。
元々は、新米で作ったと言われ、
初穂を供える穂掛の神事に由来するもののようです。
 
また、団子をこねて人形にする「タノモ人形」という習俗もあったとか。
雛人形や八朔馬を作ったり、贈ったりすることが知られています。
厄除けの意味と玩具としての目的があり、
子供の健やかな成長を願う心意が込められています。
 
八朔だんご馬」は中讃地域に伝わる祝い菓子です。 旧丸亀藩のエリアにつたわるこの風習ですが、この近辺では特に長男の出生のときに盛大にお祝いするそうです。
 
八朔の馬」とは、男の子の「八朔(旧暦8月1日)の初節句に、祝いとして近隣住民に配るものです。300年の歴史を持つこの祝いの行事は現在も新暦9月2日の早朝に行われています。馬の背中には黒田長政などの名武将を乗せ、「元気で勇壮に育つように」と作られていて、今も人々に愛され続けています。八朔の馬は、地元の藁で作ります。藁を濡らし、木の台で叩いて柔らかくし、編み込んで形を作ります。
 
 

果物の「はっさく」

 
「ハッサク (八朔)」は日本原産のみかんです。
江戸時代末期に、
広島県因島市田熊町の浄土寺で
原木が発見されました。
そして明治時代に入ってから、
当時、恵日山浄土寺の住職であった
小江恵徳(おごう えとく)
「八朔(旧暦の8月1日)には食べられる」と言ったことから
名付けられたというのが定説となっています。
 
ですが、名前の由来である
「八朔の頃(旧暦8月1日)」だと
まだ果実が小さく、食用には適していません。
「ハッサク」が実際に出回る時期は、
1月中旬頃から4月下旬までで、
最も美味しく食べられる旬は2月から3月です。
 

 
「ハッサク」は皮は厚く剥きにくい上、
瓤嚢じょうのう(=薄皮)もしっかりとしていて
剥かなくては食べられません。
その果肉は歯応えがあります。
 

 
また近年、高糖度の甘い柑橘が
もてはやされる傾向にありますが、
「ハッサク」はそれらとは一線を画し、
甘さは上品で、酸味があり、少し苦味も
あります。
 
しかし、この「ハッサク」の食感と
独特の味わいで、今なお支持者が多いミカンと言えます。
 

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