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吉原の八朔

 
 

秋の雪・八朔の雪

 
天正18(1590)年8月1日に
徳川家康が江戸に入府したことから、
江戸では「八朔(8月1日)」は
正月に次ぐ祝日となり、
吉原でもその日限定で遊女が白無垢姿で過ごす
「秋の雪」とか「八朔の雪」と呼ばれる風習が
あったそうです。
 

巴屋の高橋太夫


吉原遊廓で八朔の白無垢姿が広まったのは、
元禄の頃、江戸町一丁目巴屋にいた
高橋という名の太夫が
(おこり) を患って寝込んでいましたが、
「八朔の紋日(もんぴ)」に約束していた
一番の馴染み客が訪れたので
寝ていた時に着ていた白無垢のまま
揚屋に揚がって応対しました。
その清らかで艶やかな風情が評判となって、
それ以降この白無垢姿が
「八朔」の風物詩となったそうです。
 

紋日(もんぴ)

江戸時代、「五節句」など
各種の年中行事を行う日を
「物日」(ものび) と呼びました。
 
一方吉原では、毎月1・15・17・28日と、
正月・お盆・節句に、
3月18日の「三社祭」、6月朔日の「富士詣」、
7月10日の「四万六千日」、八朔「白無垢」、
8月15日「名月」、9月13日「後の月」、
12月17・18日「浅草歳の市」などの日を
「紋日」(もんぴ) と設定して、
「その日は特別な日だから」と理由をつけて
遊女と遊ぶための揚代を特別料金に設定して
徴収しました。
更に世間一般の「物日」と重なる日は
特に「大紋日」として料金を倍額にしました。
「紋日」に客を取れなかった遊女は、
揚代を自腹で負担しなければなりません
でした。
 
また「紋日」には新しい衣装を披露したり、
店の者に祝儀を払ったりする必要があるため、
遊女にとってはとにかく出費が嵩む日でした。
 
そこで「紋日」が近づくと、
遊女は馴染みの客に手紙を書いて無心をして、
紋日に会いに来てくれるよう誘ったそうです。
 
最初は25日程であった「紋日」も
一銭でも多く稼ごうとしたことから、
元禄の頃には1年に何と80日以上が
「紋日」か「大紋日」となってしまいました。
揚げ代だけでなく、
料理屋や店の者に渡す祝儀なども
全てが倍料金になるので
却って客足を遠ざける事となり、
幕府のお達しもあって、
寛政9(1797)年には一気に18日にまで
減らされてしまいました。
 
なお遊女は、9月9日の「紋日」から
冬衣裳になったそうです。
 

吉原俄(よしわらにわか)

 
毎年「八朔(8月1日)」から1か月間、
晴天に限り、吉原の仲之町の大通りで、
芸者や幇間などが扮装して
「吉原俄」(よしわらにわか) と呼ばれた
即興寸劇を演じました。
 
きっかけは、吉原の茶屋、桐屋伊兵衛という
歌舞伎役者の真似をするのが好きな人物が、
江戸中期の安永・天明(1772-1789)の頃、
吉原の角町の中万字屋にいた同行の士と共に、
即興の狂言をこしらえて
吉原の仲之町を練り歩いたところ評判となり、
引き続いて二、三日、趣向を替えて演じたことが始まりだそうです。
 
次第に盛んとなって、毎年行わるようになり、
仲之町の桜」「玉菊灯籠」(たまぎくとうろう)
とともに「吉原三大景物」の一つと言われる
ようになりました。

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