
江戸の町の人々にとって「八朔」は、
農村とは違う意味を持つ特別な日でも
ありました。
家康の江戸城入府
天正18(1590)年7月13日、
豊臣秀吉は徳川家康に
小田原征伐の論功行賞として、
三河・遠江・駿河・信濃・甲斐の支配領地より
関東八国への転封を命じました。
家康は配下の有力武将の
関東新領地の知行割を7月中に終えると、
天正18(1590)年の「8月朔日」に、
約1万の軍団を従えて江戸城に入府しました。
その時、家康とその家臣全員は
白装束に身を固めて江戸城に入ったと
言います。
入城時に揃いの白帷子を着たのは
白紙から出直す決意であり、
その初志を代々忘れないためと
言われています。
そして慶長8(1603)年2月12日、
家康は征夷大将軍に就任、
江戸に幕府を開きました。
幕府は将軍の入府した
この最も記念すべき「八朔」の日を、
正月に次ぐ祝日として、幕府の公式な儀式
「八朔御祝儀」(はっさくごしゅうぎ) を行なう
式日と定めました。
八朔御祝儀
(はっさくごしゅうぎ)
この日、江戸城内では
「八朔御祝儀」の行事が行われました。
諸大名と三千石以上の旗本は
白帷子に長袴姿で
五つ時(午前7~8時頃)に登城して、
同じく白帷子に長袴姿で御目見 (おめみえ) した
将軍に拝謁し、
賀詞と目録の献上を行いました。
目録には、太刀一振や馬一疋に見合う祝金の献上で、臣従の意を新たにする貢物でもありました。
この八朔の太刀馬の儀式は、
室町幕府でも公式行事でありました。
大奥の御台所 (みだいどころ) や女中達も、
揃って白帷子を身につけたと言います。
そしてこの日は大奥でも
盛大な祝い事が行われました。
奥女中による猿若狂言などが催され、
将軍から丸餅や料理などが振る舞われました。
更に徳川将軍は、足利将軍の例に倣って、
この「八朔」の日に
馬と太刀を天皇に献上しました。
但しこの太刀は御所の太刀を借用した
形だけのもので、
次の日に「御太刀代」として
現金で納めたことが
江戸中期の『夏山雑談』に記されています。
八朔の祝い
江戸市中では「八朔の祝い」となり、
五穀豊穣や無病息災を願う五節句よりも
重要な吉日として祝いました。
『絵本江戸風俗往来』の「朔日」には、
次のように記されています。
「今日八朔にて田面 (たのも) の祝賀あり。
江戸御城中御儀式格別にして、
浅草御蔵にては米穀の相場、
八朔の出来によりて極まる。
雑司ガ谷鬼子母神境内鷺明神 (さぎのみょうじん)
祭礼にて参詣多し。
新吉原の遊女今日白小袖を着して
仲の町へ出で道中す。」
ところで、雑司ヶ谷鬼子母神境内の鷺明神は、
正徳2(1712)年に「鬼子母神堂」の境内に
創建された神社です。
神仏分離後に紆余曲折を経て現在地に鎮座し、「雑司が谷大鳥神社 」と呼ばれています。
松江藩の第五代藩主の松平宣維の嫡男が、
疱瘡(天然痘)に罹患した際、託宣により、
出雲大社の摂社・伊奈西波岐神社(鷺大明神)に祈願したところ快癒したため、
雑司が谷の「鬼子母神堂」の境内に
鷺大明神を祀ったのが始まりとされています。
こうした御由緒から「痘瘡守護神」として
信仰を集め「鷺様」(さぎさま) と称されました。
秋の雪・八朔の雪
「八朔に白装束」は、武家だけでなく、
吉原でも武家社会を真似て、
この日の遊女達は白無垢姿で過ごす
「秋の雪」とか「八朔の雪」と呼ばれる風習が
あったそうです。
メインストリートの仲の町で
「花魁道中」(おいらんどうちゅう) を行いました。
吉原遊廓で八朔の白無垢姿が広まったのは、
元禄時代に、巴屋 (ともえや) の高橋太夫が
初めたのが人気となったことから、
他の遊女も真似るようになったと
幕末の『武江年表』(ぶこうねんぴょう) に
記されています。
「吉原の遊女八朔に白無垢を着する事、
元禄中江戸町壱丁目巴屋源右衛門が抱へ
高橋といへる太夫、
その頃瘧 (おこり) をわづらひ居けるが、
馴染の客来りし時、
臥せ居ける白むくの儘にして、
揚屋入りしける容の艶なりしより、
是てを真似て八朔には一般に白むくを着る事
になりし由、「花街大全」にいへり。」
