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4月9日「大仏の日」

4月9日は「大仏の日」です。
天平勝宝4(752)年のこの日、
奈良の「東大寺」で
大仏の「開眼供養会」(かいげんくようえ)が行われたことから
制定された日です。
 

 
東大寺の本尊であり、国宝に指定されている
「奈良の大仏さん」の正式名称は
「盧舎那仏坐像」(るしゃなぶつざぞう)と言います。
 
因みに「大仏」とは一般的に、
立像で高さが一丈六尺(約4.85m)以上ある仏像を指すそうです。
 

 
東大寺」は、元々、聖武天皇が
皇太子で生後1年足らずで夭折した基親王もといしんのうの供養のために
建立した「金鍾山寺」(きんしょうさんじ)でした。
天平13(741)年、
聖武天皇が「国分寺建立のみことのり」を出した際に、
大和国分寺として「金光明寺」(きんこうみょうじ)と改称。
 
その後天平15(743)年、
聖武天皇が「盧舎那大仏るしゃなだいぶつ造立のみことのり」を公布、
天平17(745)年、大和国「金光明寺きんこうみょうじ」で
「盧舎那大仏」の造像工事が開始された際に、
東大寺(とうだいじ)と呼ばれるようになりました。
 
天平21(749)年には仏身が鋳造。
同時に大仏殿(だいぶつでん)の建立も進んで、
天平勝宝4(752)年に盛大な開眼供養会が営まれました。
 
大仏殿(だいぶつでん)は、本尊の大仏を安置し、
正式には「東大寺金堂」(こんどう)と言います。
治承4(1180)年の「治承の兵火」、永禄10(1567)年の「永禄の兵火」により、2回焼失。
現存する大仏殿(だいぶつでん)は、
江戸時代の宝永6(1709)年に
公慶(こうけい)上人によって再建されものです。
財政難から、正面は7間に規模が縮小されましたが
それでも高さや奥行は創建時のままで、
世界最大級の木造建造物です。
 
 
 
聖武天皇は、災害や政変、反乱などが相次ぐ当時の社会不安を、
仏法の力によって打開しようと(鎮護国家思想)、
全国に国分寺の創建を推進する一方、大仏造立を発願。
 
「大仏造立の詔」は「紫香楽宮」で出して、
造立を開始しますが、遷都で一旦、中止。
都が「平城京」に戻った745年より再開し、
大仏鋳造は749年に完了しました。
 
天平勝宝4(752)年4月9日、
「大仏開眼供養会」が盛大に執り行われました。
 
開眼の筆を執ったのは、インド僧・菩提僊那(ぼだいせんな)
筆に結びつけられた約200mにも及ぶ縄を、
聖武太上天皇や光明皇太后、孝謙天皇の他、
文武百官、僧侶ら参集者が握りしめ、
大仏に魂を入れました。
 
この供養会には、国内だけでなく、
唐やベトナムの僧も参加し、国際色豊かなものだったそうです。
聖武天皇は
「この盧舎那大仏が国中を照らし出し、
 平和な世の中をもたらしてくれますように」と痛切に願いました。