うまずたゆまず

コツコツと

暮の春、行く春、春惜しむ、春愁、・・・

 
「晩春」の頃を表した季語に
「春深し」(はるふかし) があります。
 
晩春のこの時期は、昔から
人をして物思いに耽らせる季節だったようで、
「春深し」という季語には、
「暮の春」「春惜しむ」「行く春」「春愁」
など類縁の季語が無数にあります。
 
 

晩春の頃

新年度が始まってひと月近く経つと、
新学期、新年度の様々な行事も一区切りし、
緊張感も解けてきます。
ふと外を見ると、とうに桜も散っていて
春の絶頂期も過ぎていたことに気付き、
いよいよ今年の春も終わりなんだなあと、
寂しさが漂い始めます。
 
また晩春の頃は、
日中の気温と夜間の気温の差が大きいため、
自律神経が乱れやすくなり、
体調を狂わせやすい時期であることも、
物憂い気分を誘発するのかも知れません。
 
そのため「春深し」という季語から
「暮の春」「春惜しむ」「行く春」「春愁」
など類縁の季語が生まれたのではないかと
言われています。
 

暮の春(くれのはる)

「暮の春」(くれのはる) には、
「春の夕暮れ」と「春の終わり」という
二つの意味があります。
日本語の「暮」(くれ) という言葉に
「一日の終わり」と「時節の終わり」という
二つの意味があるからです。
 
春の夕暮れ
「春の夕暮れ」は、
春の一日の終わりに現れる
淡い色合いと穏やかな空気が特徴です。
秋の夕暮れのような寂しさとは異なり、
ゆったりとした時間が流れるような感覚が
あります。
 
春の終わり
 
初春・仲春・晩春の三春を1日になぞらえて
日が暮れるように、春が暮れていく、
すなわち「春の終わり」のことを言います。
「暮春」(ぼしゅん)、「末の春」(すえのはる) とも
言います。
 
暮の春・行く春・春惜しむ
これを旅人になぞらえたのが「行く春」で、
別れを惜しむ気持ちを込めたのが「春惜しむ」
です。
 
「春深し」との相違点
「春深し」(はるふかし) は、
桜が散り出してから「立夏前」までと
かなり長いのに対し、
「暮の春」「行く春」「春惜しむ」などは
4月末から5月初めの立夏直前までの10日間
ばかりです。
 
「行く春」や「春惜しむ」は、
「行ってしまう」とか「惜しむ」といった
直接的な情感を直接言った季語であるのに対し、
「春深し」(はるふかし) は、一般的、客観的に、
晩春の叙景を前面に押し出してその中に思いを
潜ませるといった使い方がされています。
 
「暮春」を象徴する「藤の花」
 
桜の花は疾うに散り果て、
草木の緑が鮮やかさを増した
「暮春」を象徴する花は「藤」です。
簪のような長い花を下垂させて咲く、
日本原産の「藤」は、
その優美な美しさから、
昔から日本人に愛されてきた花で、
は春を送り、夏を迎える花です。
 

春惜しむ、
惜春(せきしゅん)

 
過ぎ行く春を惜しむことを
「春惜しむ」(はるおしむ)「惜春」(せきしゅん)
言います。
 
 
「惜しむ」という心情が成り立つには
次の条件が要ります。
 1.良きものであること
 2.やがて失われること
 3.失われることを知っていること
 4.知っていながら愛すること
 
 
これに適うのは、まず「花」「月」。
「人の命」や「人との交わり」も惜しむべき
ものの一つに入ります。
 
そして季節では「春」と「秋」です。
過しにくい「夏」と「冬」に対しては
「惜しむ」とは言いません。
 

行く春(ゆくはる)

過ぎ去ろうとする春を旅人になぞらえて
「行く春」(ゆくはる) と言います。
 
 
(ゆくはるや とりなき うおのめはなみだ)
「行く春や鳥啼き魚の目は涙」
 
これは、俳人・松尾芭蕉が、
門弟の河合曾良を伴って
「奥の細道」の旅に出た際に、
人々に見送られた心境を、
人だけでなく鳥や魚までが
別れを惜しんでいると描写して詠んだ歌です。
 

春愁(しゅんしゅう)


「春愁」(しゅんしゅう) とは、
春に感じる物憂い思いを言います。
 
「初春」から「晩春」まで通して
用いられる季語ですが、
まだ寒さの残る2月よりは
春たけなわの3、4月の頃に感じる愁いを
表していると思われます。
 
冬の寒さから解放された春は、生気が溢れ、
華やかなで人の心を明るくするのですが、
そのような中でも時として、私達人間は、
ふと物思いに耽ったり、
何とも言いようのない憂欝な感覚や哀愁に
囚われることがあります。
 
春は年度末と新年度の始まりで
忙しなく、何となく落着かないことが
物思いの種になるのかもしれません。
 
また春は天気が変わりやすく、
気温の変化も大きいことから
自律神経が乱れやすくなって
物憂い気分を誘発するのかも知れません。
 
 
春に「春愁」があるように、
秋に「秋思」(しゅうし) という季語があります。
 
「春愁」が、万物萌え出づる華やかさの
裏に潜むある種の暗さ、倦怠感を伴った
「物思い」であるのに対し、
「秋思」の方は、色づいた木の葉がやがて散り、
風も寒さを増すと、いよいよ厳しい冬を迎える
という寂寥感が根底にある「物思い」です。
 
春も秋も、気象状態が不安定な季節であり、
自然界の変化も急激です。
こういう環境の下では、誰しも知らず知らずに
「物思い」をするようになるのでしょう。
 
なお「春愁」は、
「シュンシュウ」という音読みだけでなく、
「春うれひ」と柔らかく大和言葉風にも
用いられています。
また発展して、「春恨」(しゅんこん)
「春怨」(しゅんえん) 「春かなし」という傍題も
生れています。
更には「秋思」と対応して
「春思」とも詠まれるようになっています。