「田毎の月」(たごとのつき)とは、
山間に階段状に並ぶ、田植を終え、
水が張られた「棚田」の一枚一枚に映る月を
言います。
古くから名月の里
「月の都 千曲」と「月の都 さらしな」
「田毎の月」(たごとのつき)と言えば、
長野県千曲市の「姨捨の棚田」(おばすてのたなだ)が有名です。
平成11(1999)年に「棚田百選」[PDF]、
平成22(2010)年には
令和2(2020)年度には「月の都 千曲」として
文化庁の「日本遺産」に認定されています。
千曲市には、大宝律令制定の時に既にあった
「更級」(さらしな)という
由緒と歴史のある地名があります。
但し、「更級郡」という名称は平成17(2005)年に
長野市と合併したことにより消滅しています。
長野市と合併したことにより消滅しています。
ところで、菅原孝標女の自叙伝であり回想録の
『更級日記』のタイトルでもある
「更級」は千曲市を流れる千曲川の西側域の
「さらしな(旧・更級郡)」のことです。
『更級日記』の中に、年老いた自分の姿を
「姨捨山」と重ねて詠んだ歌があることからの
タイトルなのだそうです。
更級日記
月も出でで 闇に暮れたる 姨捨に
何とて 今宵 訪ね来つらむ
何とて 今宵 訪ね来つらむ
訳 月も出ないで暗闇になっている姥捨山のように
来ても甲斐のない、姥捨山に捨てられそうな
お婆さんの私のところに、いったいどうして
今夜あなたは訪ねてきているのだろうか。
来ても甲斐のない、姥捨山に捨てられそうな
お婆さんの私のところに、いったいどうして
今夜あなたは訪ねてきているのだろうか。
当時は、「さらしな」と言えば、
それは信濃の国の「更級郡」と
そこにある「姨捨山」が連想出来るほど
都では有名でした。
そしてその「さらしな」は
月が美しい「月の都」として有名で、
『古今和歌集』にあるよみびとしらずの
「わが心 慰めかねつ 更級や
姨捨山に照る月を見て」
姨捨山に照る月を見て」
私の心はついに慰められなかった。
更級の姥捨山の山上に輝く月を見た時は
かえって悲しくなった
更級の姥捨山の山上に輝く月を見た時は
かえって悲しくなった
を最古の例として、前述の『更級日記』の他、
『新古今和歌集』などにも月を詠んだ和歌が
約40首余り撰じられています。
・更級や 昔の月の 光かは ただ秋風ぞ 姨捨の山
(藤原定家)
・あやしくも 慰めがたき 心かな
姨捨山の月を 見なくに (小野小町)
・君が行く 処ときけば 月見つつ
姨捨山ぞ恋しかるべき (紀貰之)
・隈もなき 月の光を ながむればまづ
姨捨の山ぞ 恋しき (西行)
・諸共に姨捨山を越るとは都にかたれ更級の月
(宗良親王)
室町、江戸時代になると、千曲川を挟んで
冠着山(姥捨山の正式名称)の対岸にある山が
「鏡台山」(きょうだいさん)と名づけられ、
「さらしなの月」が上る舞台の山と
称賛されるようになりました。
姨捨の棚田(おばすてのたなだ)
「姨捨の棚田」(おばすてのたなだ)は、
江戸時代の明暦年間(1665-1658)に、
大池用水の築造により、
江戸時代から明治時代にかけて
「姨捨の棚田」の本格的な開発が進められると、
斜面に並ぶ不揃いな形の棚田それぞれに浮かぶ
月光は「田毎の月」(たごとのつき)として
注目されるようになりました。
因みに、嬢捨の「田毎の月」(たごとのつき)
という言葉が初めて登場したのは、
天正6(1578)年の製作とされる
狂言本『木賊』(とくさ)でした。
そして、姨捨の「田毎の月」を眺めるために、
松尾芭蕉や小林一茶など多くの俳人が訪れ、
歌句の題材にもなりました。
・姨捨てし国に入りけり秋の風 (小林一茶)
・姨捨てた奴もあれ見よ草の露 (小林一茶)
・おもかげや姨ひとりなく月の友(松尾芭蕉)
・十六夜もまだ更級の郡かな (松尾芭蕉)
・元旦は田毎の月こそ恋しけれ (松尾芭蕉)
現在、姥捨には、約40haの面積に
小さな棚田が1500枚余りあります。
そして5月から6月上旬には、
水が張られた棚田に「田毎の月」(たごとのつき)を
見ることが出来ます。
江戸時代の浮世絵師・歌川広重は、
全ての棚田に月が映る
摩訶不思議な情景を浮世絵に描きました。
小初瀬山(おはつせやま)
「姨捨山」は昔、「小初瀬山」(おはつせやま)と
言いました。
奈良時代以前からこの山裾には
初瀬(泊瀬)の皇子を奉斎する
部の民「小初瀬部氏」が広く住していたことに
よるそうです。
この「オハツセ」の転訛が
北端で「長谷(ハセ)」の地名で残り、
南西部では「オバステ」で定着したものと
されています。
「姨捨」に伝わる伝説
長野県北部の千曲川西岸の「姨捨」(おばすて)は、古くから和歌にも詠まれてきた「名月の里」で、
たくさんの民話伝説がありますが、
ここでは代表的な3話をご紹介致します。
冠着山伝説
長野盆地南西端に位置する「姨捨山」の
正式名称は「冠着山」(かむりきやま) と言います。
冠形の峰を大空に聳え立たせた
美しい姿形をしていることから、
神代の昔、「天の岩戸」を背負って
天翔けてきた「手力男命」(たじからのおのみこと)が
この美しい峰に惹かれて、
ここで一休みして冠を着け直したという
「冠着山伝説」のある山でもあります。
なお他にも幾つかの呼び名があり、
「冠山(冠嶽)」「更科山」「坊城」とも
言われます。
木花咲耶姫伝説
月の光は人の心を清らかにする
木花咲耶姫(このはなのさくやひめ)という
見目麗しき妹姫と
姉の大山姫(おおやまひめ)がおりました。
大山姫は世の荒波の中で、心がねじ曲がり、
世の見方、行動も意地悪な姫となっていました。
妹姫が心配して神にお願いすると
「さらしなの高根を越えたところに
大岩があるからそこで月を見なさい」との
お告げがあり、二人してこの大岩に登りました。
やがて鏡台山から美しい満月が上り、
この里を一面に照らしました。
この光を浴びた大山姫は心を洗われ
生まれた時の様な「さやけき心」を
取り戻し叫びました。
「神様、私は、いつの間にかさやけき心を
なくしていました、これからは人々の為に
働きたい、こんな私でもできるのでしょうか」
その時月の宮の建御名方神からの声が響き、
「大山姫よ、今のお前の心が一番大切なのだ。
さー私と一緒に月の都に上がり人々の為に
働こう!。」
こうこうと光り輝く満月から
数百条の光の架け橋が姨岩にかかり
大山姫は月の宮に登って行かれました。
この地の月の光は
「人をさやけき心」にしてくれます。
波多き世ではありますが、欲張りや、不信ごまかしや、だましがいっぱいの世ではありますが
自分の心だけはごまかさず、「さやけき心」で
この世を送れたらと思います。
姨捨伝説
孝行息子と老人の知恵の話
昔この里には殿様のお達しで、
60歳になったら年寄りを姨捨山に捨てなければ
なりませんでした。
若者の母もこの時を迎え、泣く泣く背負い山に連れて行きましたが、置いてくることが出来ず
自分の家に地下室を作り、秘密に住まわせて
いました。
ある時この国に隣の国から
「灰でなった縄を差出せ、出来なければ
攻め込んで滅ぼしてしまうぞ」と難題が
突き付けられ、国中で知恵を絞りましたが
「灰の縄」を作ることが出来ませんでした。
これを聞いた若者が母親に聞いたところ
母はその作り方を教えてくれ、殿様に申し上げ
ご褒美をたくさんいただきました。
その後も隣の国からは
「ほら貝の曲くねった穴に紐を通せ」とか
「まん丸に削った丸太のどちらが根元か当てよ」
等と次々に難問が突き付けられ、
誰もが解けない事を息子の母親が解決して
くれました。
隣の国の殿様は「こんな知恵者が居る国と
戦っても勝ち目はない」と攻め込むの諦め
平和が訪れました。
やがて子の知恵が老人の知恵であることを知り
棄老の命令を撤回し、老人を大切にする国に
変わりました。
また親孝行な息子は大層褒められたということです。