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4月18日「鎮花祭(薬まつり)」

 
毎年4月18日、奈良県桜井市にある
大神神社(おおみわじんじゃ)
その摂社である「狭井神社(さいじんじゃ) では、
花の霊力によって疫病を鎮めるお祭り、
「鎮花祭」(ちんかさい)が行なわれます。
「鎮花祭」は「はなしずめのまつり」とも
言います。
 
 

「鎮花祭」始まった経緯

「鎮花祭」(ちんかさい、はなしずめのまつり)は、
第10代崇神天皇の御代に疫病が流行した際、
これは三輪山の神・大物主大神のしたことと
お告げを受けた天皇は、神の意に従って、
大物主神 (おおものぬしのかみ) の子孫となる
大田田根子(おおたたねこ)にを探し出して、
大神神社の祭神・大物主神を祀らせたところ
祟りが鎮まり疫病が止んだことから
始まったと言われています。
 
 
三輪山麓の磯城瑞籬宮しきのみずがきのみやにおられた崇神天皇の時代、
疫病がはやり、多くの人々が亡くなった。
憂えた天皇の夢枕に、大物主大神が貴人の姿で現れ
「大田田根子に私を祭らせれば、災いもおさまり、
 国も平安になるであろう」と告げた。
早速、早馬を四方に出して探すと、
茅渟県陶邑ちぬのあがたのすえのむら(今の大阪府堺市あたりか)に
いることが分かり、天皇のもとにお連れした。
天皇はその大田田根子を神主として大物主大神を
お祀りしたところ、疫病はたちまち収まった。
五穀は豊かに実って農民は皆喜んだという。
 
三輪山の神・大物主神
『古事記』の
大国主命 (おおくにぬしのみこと) の「国造り」に、
大物主命 (おおものぬしのかみ) の登場と
三輪山に祀られた話が記されています。
大国主命は、少彦名神 (すくなひこなのかみ)
協力を得て国造りの事業をされていました。
ところが、少彦名神が常世の国へ去ってしまい
大国主命は一人になってしまいました。
「私一人でどうして国造りをしていこう、
 どの神様とこれから国造りをしていけば
 よいのか」と途方に暮れていたところ、
海の彼方から光り輝く神がやって来ました。
それが大物主命でした。
 
大物主命は、
「私をよくお祀りしてくれたなら
 共に国造りをしましょう。
 そうしなければ、国造りは難しいですよ。」
と申されました。
 
大国主命がそれならばあなたをどこに
お祀りすればよいかと訊ねると、
大物主命は、
「私を倭の青垣の山に祀ってくれたら
 国造りを成すことができるであろう」
とおっしゃいました。
そこで大国主命は、言われた通りに、
大物主命を倭の御諸山(=三輪山)に
お祀りしたと記されています。
 
この話は『日本書紀』にも記述がありますが、
大国主命が自らの和魂(幸魂奇魂)を
三輪山に鎮めたと記されています。
『出雲国造神寿詞』
(いずものくにのみやつこのかむよごと) には、
大国主命の和魂を大物主神の名前で
三輪山に鎮めたと記されています。

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大田田根子って?
大田田根子(おおたたねこ)は、
『日本書紀』では、
大物主神 (おおものぬしのかみ)
活玉依媛 (いくたまよりひめ) との
結婚によって生まれた者で、
三輪君氏 (みわのきみうじ) の始祖とされます。
現在は、大神神社の摂社
大直禰子神社(おおたねこじんじゃ)、
別名「若宮社」に祀られています。
 
本殿には、奈良時代の大神寺創建当初の
部材が残っており、最古級の神宮寺遺構として
貴重なものです。
現在は室町時代の姿に復原され、
国の重要文化財に指定されています。
 
大直禰子神社」の石段脇には、
今も残っていますが、
記紀に登場する活玉依媛いくたまよりひめの苧環の糸が
この杉の下まで続いていたという伝説が
残されています。

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三輪山神婚説話
「神婚説話」(しんこんせつわ) とは、
「神」と「人間」と結婚し、
「神の子」が誕生することを主題とした
説話です。
多くの場合は、登場する神は男神で、
その神と結婚する女は巫女的な性格を持ち、
その間に誕生する「神の子」は
一族の始祖になったと語られるのが
基本型です。
 
『古事記』には、
三輪山にまつわる神婚説話があります。
活玉依毘売 (いくたまよりひめ) のもとに
夜ごと立派な男が訪ねて姫は身籠ります。
男の素性を知ろうとした怪しんだ両親は、
姫に麻糸を通した針を
男の衣の裾に刺しておくように言います。
翌朝、その麻糸を辿ると
三輪山の神社まで続いていて、
男は大物主神であったと知ります。
この時、麻糸が三重(三勾)残ったところから
その地が「ミワ」と名付けられたと
言われています。
 
なお大物主神には、
丹塗矢 (にぬりや) に変身して
用便中の勢夜陀多良比売 (せやだたらひめ) に近づき陰部 (ほと) を突き、後に神武天皇の皇后となる
神の子・伊須気余理比売 (いすけよりひめ) が生まれたという神婚説話があります。
 
また「箸墓伝説」(はしはかでんせつ) もあります。
大物主神を祀ることで疫病が収まった後、
大物主神の妻となった
倭迹々日百襲姫命 (やまとととびももそひめ)
夜しか現れない大物主神に、
もっとよく御姿を見たいとお願いすると、
大物主神は朝に姫の櫛籠に入るから
姿を見ても驚かないで欲しいとおっしゃい
ました。
夜の明けるのを持って、姫が櫛箱を見ると、
中には小さな美しい蛇が入っていました。
姫が思わず驚いて叫ぶと、
大物主神は大いに恥じて、
たちまち人の姿となって、
三輪山に帰ってしまわれました。
姫は、三輪山を仰ぎ見て悔い悔やみ、
腰を抜かして座ったところ、
箸で陰部を突いてしまい
そのまま亡くなられてしまいました。
姫は大市に葬られましたが、
人々はこの墓を「箸墓」(はしばか) と言いました。
 

鎮花祭
(ちんかさい、はなしずめのまつり)

 
毎年4月18日に斎行される
「鎮花祭」(ちんかさい) は、
約2000年の歴史があります。
 
旧暦3月の桜の花びらが散る頃には、
花びら一枚一枚には疫神が宿っていて、
散る花びらに乗って、疫病神も飛散して
疫病を流行らせると考えられていました。
そのため花とともに飛散する疫神を鎮めるため、
「鎮花祭」が行なわれるようになりました。
 
『大宝律令』(701年)には、
この祭儀は朝廷の神祇官によって行なわれる
国家的祭祀として行うことが定められています。
 
平安時代の律令の注釈書
『令義解』(りょうのぎげ)には、
春の花びらが散る時に
疫神が分散して流行病を起こすために、
これを鎮遏(ちんあつ)するために
大神神社」と「狭井神社」で祭りを行うと
記されています。
 
狭井神社(さいじんじゃ)
奈良県桜井市にある大神神社の摂社。
祭神は大神荒魂神おおかみあらたまのかみで、大物主神と
姫蹈鞴五十鈴姫命ひめたらいすずひめのみこと伊須気余理比売いすけよりひめ
勢夜多々良姫せやたたらひめのみこと、事代主神を配祀しています。
本社・大神神社が大物主神の
「和魂」(にぎみたま) を祀っているのに対し、
狭井神社は「荒魂」(あらみたま)
祀られています。
「荒魂」の力強い神威から、
病気平癒の神様として信仰が篤い。
「狭井」は神聖な井戸・泉・水源を意味し、
境内にある薬井戸の「御神水」は
諸病に効くと言われ、
この「御神水」を求めて多くの人が汲みに
訪れます。
 
現在は、毎年4月18日に
まず「大神神社」、次いで「狭井神社」で
「鎮花祭」が執行され、
「薬まつり」とも呼ばれることから、
奈良県内は勿論、
全国の製薬関係者や医療関係者が多数参列し、
神饌として薬草でもある
「ユリの根」と「忍冬」(すいかずら) を供えます。
 

 
また祭典後には、疫病除けのため
「鎮花御幣」(ちんかごへい)
忍冬 (すいかずら) の葉や茎を用いて作った
薬酒の「忍冬酒」(にんどうしゅ)
期間限定で授与されます。
 
忍冬酒(にんどうしゅ)
薬草の「スイカズラ(忍冬)」を
本格みりんに漬け込んだお酒で、
甘く芳醇な香りがし、疲労回復や解毒作用、
冷え性などに効き目があると言われている。
昭和初期までは「浜松名産」として知られ、
徳川家康も愛飲したと言われている。
 

 
大神神社」の祈祷殿から
狭井神社」へ向かう参道には、
製薬業者から奉納された薬木が植えられ
くすり道」と呼ばれています。
 
また「狭井神社」前には三輪山登山口があり、
社務所に申し込めば、
神体山に登拝することも出来ます。

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