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太子会(たいしえ)

 
推古天皇30(622)年の
旧暦2月22日(新暦4月11日)に、
聖徳太子が斑鳩宮(いかるがのみや)において
御年49歳で、病のために薨去されました。
太子の命日には諸説あり、
推古天皇30年2月22日という忌日は
『上宮聖徳法王帝説』に
記述されている日付であり、
『日本書紀』では
推古天皇29年2月5日となっています。
 
 
 
 
旧暦2月22日に聖徳太子の忌日として
京都市右京区の「広隆寺」で行われた
「法会」(ほうえ)のことを
「太子会」(たいしえ)と言います。
 
 
現在「太子会」は途絶えてしまいましたが、
明治の中頃からは、代わりに新暦11月22日に、
「聖徳太子御火焚祭」(おひたきさい)を修し、
太子に法楽を捧げています。
 
 
また聖徳太子ゆかりの
奈良の「法隆寺」では3月22日から3日間、
「御会式」(えしき)を、
大阪の「四天王寺」では4月22日に、
「聖霊会」(しょうりょうえ)と呼ばれる
聖徳太子の遺徳を偲んだ
「法会」(ほうえ)が行われます。
 
 
大阪の「四天王寺」では、
太子安置の鳳輦(ほうれん)
舎利の玉輿(ぎょくよ)の二行列が六時堂に入り、
堂前の亀の池に渡る石舞台では、
朝鮮半島伝来の「高麗楽」(こまがく)が右方、
China大陸伝来の「唐楽」(とうがく)が左方として
舞楽を交互に舞われます。
舞台四隅には曼殊沙華「貝の華」を掲げます。
この「貝の華」は、古くは華を住吉浜の桜貝で
造り、茎には生駒山の苔を貼ったものでした。
 
 
「桜貝」(さくらがい)
「桜貝」は、ニッコウガイ科の二枚貝で、
殻の長さ3cm・高さ1.8cm・幅0.6cm程の大きさで、
北海道以南の沿岸に広く分布し、浅い海の砂泥底に生息しています。
桜色で光沢を帯び美しく、その桜色を古来愛され、
古くは「花貝」と言われました。
殻が砂浜に片々と打ち上げられているのは、
桜の花が散っているようで美しいです。
なお食用にはなりません。
 
「貝寄風」(かいよせかぜ)
旧暦2月20日頃、難波の浦に吹き付ける
強い西風を「貝寄風」(かいよせかぜ)と言います。
聖徳太子が建立した当時「四天王寺」は、
難波の海辺にあり、この西風に乗って砂浜に吹き寄せられた貝殻を集めて「貝の華」を作り、
旧暦2月22日の太子の命日に行われる「聖霊会」で飾りました。
それで「貝寄」と呼ばれるようになったのです。
なお「貝寄風」は大抵、1,2日で吹き止みます。
 
 
聖徳太子は輿に乗せられ、
陪従の人々は各々雑花を手に捧げ、
仏弟子は仏を賛える歌を歌い、
道の左右の百姓も手に花を持ち仏歌を歌い、
あるいは声を失い大声で泣きながら、
太子と妃・膳部大郎女との葬送の列が、
斑鳩から磯長に続くのを見送ったと
『扶桑略記』に記されています。
 
 
なお「聖徳太子廟(磯長墓)」は、
大阪府太子町の叡福寺北側にある
磯長谷北側斜面の
自然地形を利用して築かれた円墳で、
なんと明治時代初期までは
石室内部に入ることが出来たそうです。
 
そこには、49歳で亡くなった聖徳太子と、
太子と共に病となり、
太子が亡くなる前日に亡くなられた妃の
膳部大郎女(かわしべのおおいらつめ)
更にその2ヶ月前に亡くなられた母后の
穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)
同じ廟所に埋葬されたので、
これを「三骨一廟」(さんこついちびょう)
呼んでいます。
 
芹摘姫せりつみひめの伝説」
聖徳太子が行幸していた時、沿道には太子を
一目見ようと人垣が出来ていましたが、
その中でたった一人、無心で「芹」を摘んでいる
少女がいました。
太子は不思議に思い、少女に声を掛けたところ、「母親が病気で看病のために芹を摘んでいて、
 太子の行幸を見送ることが出来ません。
 お許しください」と答えました。
太子は少女の親孝行の気持ちに感心し、
歌を一首贈りました。
少女は太子に対して返歌を贈ったのですが、
この返歌が素晴らしかったので、太子は再び感心し
後に少女は太子の妃になりました。
この少女が膳部菩岐々美郎女かしわでのほききみのいらつめ(または芹摘姫)で、
身分は低い出自ながらも、太子に最も愛され、
4人の妃のうち最も多い四男四女を産みました。
「死後は共に埋葬するよう」と言ったと伝えられ、
太子が病に伏すと、看護し、共に同じ病に倒れ、
太子が亡くなる前の日に没しました。
現在も聖徳太子と共に、同じ墓所で眠っています。
 
 
墓前には、空海、親鸞、良忍、一遍、
日蓮などの諸賢聖や、名僧、知識人の参籠が
多く行われたそうです。