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彼岸会(ひがんえ)

 

彼岸会(ひがんえ)

 
「彼岸会」(ひがんえ)とは、
春分と秋分の日を中日として、
前後の3日ずつ計7日の間に
各宗派の仏教寺院で行われる
仏事供養のことを言います。
 
この行事は日本だけに見られるものです。
3月の仏事としては「春の彼岸会」、
9月の仏事としては「秋の彼岸会」があります。
 
「彼岸会」は、聖徳太子の頃より
始まったとも言われていますが、
平安時代から江戸時代にかけて習慣化、
年中行事化したと言われています。
 
 
彼岸の期間は、全国の寺院では
彼岸会、彼岸法要が営まれます。
また、彼岸には檀那寺の僧侶を自宅に招いて、
個別に法要を営むことが通例となっている
地域もあります。
 

 
また一般の家庭ではこの間、
「彼岸団子」や「ぼたもち(おはぎ)」を
作って仏前に供え、
お寺参りやお墓参りをして御先祖の霊を慰め、
その成仏を祈るのが習慣となりました。
 

彼岸会の起源

 
「彼岸会」(ひがんえ)が行われたのは、
1200年程前の平安時代初期まで遡ります。
 
大同元(806)年、七日間の間、昼夜を問わずに
無実の罪を訴えて死去した
早良親王(さわらしんのう)の怨霊を鎮めるために
全国の国分寺の僧侶が、春と秋の年2回、
7日間に渡って読経を行われました。
 
 
 
早良親王(さわらしんのう)は、
兄の桓武天皇が50代天皇に即位すると同時に、
皇太子となりました。
 
そんな中、延暦4(785)年9月23日に
長岡京造都の最高責任者として尽力していた
藤原種継が暗殺される事件が起こります。
実行犯や共犯者は捕えられ死罪となった他、
皇太子であった早良親王にも嫌疑がかけられ、親王は乙訓寺 (おとくにでら) に幽閉され、
絶食して無実を訴えたまま、淡路に配流途中、
憤死したとされています。
 
ところがその後、
桓武夫人の藤原旅子 (ふじわらのたびこ)
生母の高野新笠 (たかののにいがさ)
皇后の藤原乙牟漏 (ふじわらのおとむろ)
相次いで亡くなった他、
皇太子・安殿親王 (あてしんのう;後の平城天皇)も
重病となりました。
また、疫病・洪水・日照りなどの天災が相次ぎ、
それら一連のことが早良親王の祟りによると
言われました。
 
そこで和気清麻呂 (わけのきよまろ) の進言を入れ、
延暦13(794)年に平安京へ遷都し、
延暦19(800)年には早良親王に
「崇道天皇」(すどうてんのう) の名を追贈し
祟りを鎮めようとしました。
そして大同元(806)年に
「彼岸会」が執り行われたのです。
 

延暦(えんりゃく)
日本の元号の一つ。
昭和、明治、応永、平成に次いで、
歴代で5番目に長い元号です。
782年から806年までの期間を指します。
 
その後、「彼岸会」(ひがんえ) という行事が
「春分」「秋分」を中心とする七日間に
開催されるようになり、
江戸時代にかけて年中行事として
民衆に定着したとされています。