
10月26日「柿の日」
明治28(1895)年の10月26日、
俳人の正岡子規が
「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」の句を
詠んだことに因んで、
「全国果樹研究連合会カキ部会」が
柿の販売促進を目的に
10月26日を「柿の日」に制定しました。
また「フルタの柿の種チョコの日」でも
あります。
柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺
「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」は、
正岡子規 (まさおか しき) が生涯で詠んだとされる
約20万句以上の俳句の中で最も有名なもので、
芭蕉の「古池や蛙飛びこむ水の音」と並んで
俳句の代名詞として知られています。
正岡子規は、無類の柿好きで、
「樽柿」を一度に7、8個も食べるのを
常としていたそうです。
友人の夏目漱石の『三四郎』には、
「子規は果物が大変好きだった。
かついくらでも食える男だった。
ある時大きな「樽柿」(たるがき) を
十六食ったことがある。
それでなんともなかった。
自分などはとても子規の真似は出来ない」と
正岡子規の柿好きを表した場面が登場します。
「樽柿」(たるがき)
渋柿を空いた酒樽に詰め、樽に残る
アルコール分で渋を抜いて甘くした
柿のことで、どちらかと言えば安物の柿。
それほど、柿好きの正岡子規は、
「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」の他にも、
「渋柿やあら壁つゞく奈良の町」
「渋柿や古寺多き奈良の町」
「柿落ちて 犬吠ゆる奈良の 横町かな」
「奈良の宿 御所柿くへば 鹿が鳴く」という
「柿」という言葉を使った句を詠んでいます。
ところで、子規は随筆『くだもの』の中で、
当時の滞在していた奈良の老舗旅館
「對山樓」(たいざんろう) での出来事を
紹介しています。
「對山樓」は江戸末期に創業の江戸末期から
明治、大正にかけ奈良屈指の老舗旅館で、
政治家や学者、文人など明治の各界を代表する
人達が多く宿泊しました。
明治23年に鉄道開通で奈良駅が出来ると衰退、
大正8(1919)年一度廃業。
戦後再び営業するも、昭和38(1963)年に
完全廃業しました。
平成3(1991)年、同場所に天平倶楽部が建ち、
「子規の庭」 が平成18(2006)年開園しました。
それによると、この句を詠んだ日は
実際には雨だったようですが、
前夜、宿屋の下女が持ってきた
「御所柿」(ごしょがき) を食べている時に
響いた東大寺の鐘の音に抱いた感興を
法隆寺の近くの茶店という舞台設定に変えて、
「柿食えば」の句を詠んだそうです。
「御所柿」(ごしょがき)
奈良県御所市が原産の柿で、小ぶりながら
非常に甘く、「甘柿」の原種とされています。
江戸時代初期、大和国御所町で、
褐班 (ゴマ) がなく樹上で自然に甘くなる
完全甘柿が突然変異によって生まれました。
それ以前の柿と言えば、「渋柿」か、受粉して種が入り、褐班が出来て、初めて甘くなる
不完全甘柿しかなかありませんでした。
甘味が強く粘り気のある食感は「天然の羊羹」ともたとえられ、極上の「御所柿」として
幕府や宮中にも献上されていました。
柿は「神様の食べ物」
「柿」(かき) は、カキノキ科の落葉高木です。
China原産と考えられ、
日本には奈良時代(8世紀)に渡来し、
改良されて徐々に品種が増え、
江戸時代末期には200品種以上、
昭和初期には800以上、
現在では1000種類以上もあるそうです。
それを大まかに分類すると、
「甘柿」「渋柿」の2種類に分けられ、
「甘柿」「渋柿」との違いは、
「タンニン」の有無と果肉の柔らかさです。
「甘柿」「渋柿」を外見のみで
正確に見分けることはとても難しいですが、
「甘柿」は平たい四角、
「渋柿」は縦長で下部が少し尖った形を
している品種が多いです。
「渋柿」は、口に入れた時に渋みを感じる
「タンニン」が含まれた柿のことで、
基本的にそのまま生で食べることは出来ず、
収穫されたタイミングで「渋抜き」を行います。
主に干し柿にして食べられるのが一般的で、
「市田柿」「おけさ柿」「鉢屋柿」「愛宕柿」
「富士柿」「横野柿」「蜂屋柿」 「刀根柿」
「みしらず柿」「百目柿」などがあります。
なおChinaや韓国の柿のほとんどは「渋柿」で、
それが本来のカキの姿のようです。
一方「甘柿」は、成長する過程で渋みを感じる
「タンニン」が減ります。
日本固有とも言われ、
13世紀頃に出現した品種とされます。
「富有柿」「次郎柿」「太秋柿」「てまり柿」「西村早生柿」「早秋柿」「御所柿」などが
あります。
「Diospyros kaki(ディオスピロス・カキ)」
という学名ですが、
「Dios=神」「pyros=穀物」で、
まさに「神の食べ物」という意味で、
美味な果実を讃えて付けられたそうです。
そして種小名に付けられた「kaki」の名は、
勿論、日本語の「かき」が由来です。
