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旅に病んで夢は枯野をかけ廻る

 
元禄7(1694)年の10月12日、
「奥の細道」などで数多くの名句を詠んだ
俳聖・松尾芭蕉が亡くなりました。
「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」は、
漂泊の一生を締めくくる、生前最期の句です。
 
 

松尾芭蕉

 
松尾芭蕉(1644-1694)は、
小林一茶、与謝蕪村と並び称される
「江戸の三代俳人」の一人で、
「俳聖」として世界的にも有名な俳人です。
 
十代の終わり頃に「俳諧」(はいかい)に出会い、
江戸に出て武家から俳諧師となりました。
37歳で江戸の街中を離れて
深川の草庵「芭蕉庵」に移り住み、
ここを拠点に俳諧活動を展開しました。
 
俳号「芭蕉」の由来
深川に構えた庵は、当初は「草庵」と
いいましたが、そこに植えた芭蕉の木が
立派に生長して名物となると
弟子達がこの庵を「芭蕉庵」と呼び、
これを受けて、師匠も戯れに自らを
「芭蕉」と号するようになりました。
 
『野ざらし紀行』の旅に出たのは、41歳の時。
以後、『笈の小文』『更科紀行』『奥の細道』と
旅を重ねながら、
「不易流行」(ふえきりゅうこう)の思想、
わび・さび・軽みなどの「蕉風」(しょうふう)を確立し
「俳諧」を芸術にまで高めました。
作句は没後『芭蕉七部集』にまとめられました。
 
俳句という言い方が一般化するのは、
明治期に正岡子規が
「文芸改革」を提唱してからのことで、
それ以前は「俳諧」と呼ばれていました。
 

旅に病んで夢は枯野をかけ廻る

 
この句は亡くなる4日前に詠んだもので、
芭蕉が残した生前最期の句であり、
辞世の句だとも言われています。
現代語訳すると・・・、
「旅の途中、病床に臥しながらも、
 夢に見るのは今なお枯野を駆け巡る
 私自身の姿であったことだ」
死の直前にあっても
旅や俳句を思う情念を素直に表現しています。
 
芭蕉の最期
元禄7(1694)年、芭蕉は51歳の頃、
弟子の槐本之道(えのもとしどう)
濱田洒堂(はまだしゃどう)の諍いを仲裁するため、
9月8日に伊賀上野を発ち、大坂に出掛けますが、
大坂到着後直ぐ、寒気・熱・頭痛に悩まされます。
一旦治り、洒堂と之道の家に公平に逗留して、
両人の門弟が集まって行われた句会に出たりも
していました。
ところが9月29日夜には再び体調を崩し、
下痢を発病し、病床に就きます。
仲裁が上手くいかない心労があったのか、
病状は日に日に重くなっていきます。
10月5日には、狭い之道邸から
大坂御堂筋の旅宿・花屋仁左衛門宅離れ座敷に
移りますが、病状は一向に回復しないことから、心配した弟子達が集まり始めます。
そして死の4日前の10月8日深更、
呑舟(どんしゅう)に墨を摺らせて、
病中吟「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」と
書かせました。
 
辞世の句ではない⁉
「病中吟」とある通り、
芭蕉本人はこの句を詠んだ時点では、
自分にとっての辞世の句であるという認識は
なかったと考えられています。
元気になってこれまで通り俳諧や旅を続け、
もっと素晴らしい句を作りたいという
願いや執念によって生まれた作品だと
詠むことが出来ます。
 
平生即ち辞世なり
また芭蕉は、「平生即ち辞世なり」
(常日頃から、一句一句を辞世のつもりで
 詠んでいる)と答えています。
この言葉からも、芭蕉が詠んだ辞世の句はなく、
強いてあげるならば全ての句が辞世の句だと
いう説もあります。
 

芭蕉忌(ばしょうき)

 
松尾芭蕉の忌日。
陰暦10月12日、現在の11月下旬。
時雨忌 (しぐれき) 。翁忌  。
 
51年の生涯を終えたのが、折しも初冬で、
芭蕉が追究した「わび・さび・しおり・細み」と
いった詩境に通じる「時雨」の時季であり、
芭蕉自身も時雨の風情を生涯愛したことから、
芭蕉忌は「時雨忌」とも称されます。
 
俳句の世界で「翁」(おきな)と言えば芭蕉のこと。
俳人達は敬意を込めて「翁」と呼び、
「翁忌」(おきなき)も別称になっています。
 
「桃青忌」 (とうせいき)は、芭蕉が初めて使用した
俳号「桃青」から来ています。
「桃青」の由来は、憧れの唐の詩人・
「李白」に因んだものであり、
「李」(すもも)と「白」で「李白」と号すなら、
(未熟な)自分は
「桃」と「青」で「桃青」と号す、
というもじりであるとされています。