春、桜の花見に出掛けた江戸の庶民は、
夏には蓮の花を見る「蓮見」(はすみ/はちすみ) を
楽しみました。
「蓮見」の名所として特に有名だったのは、
上野公園南西端にある周囲約2kmの池
「不忍池」(しのばずのいけ)です。
江戸時代後期に書かれた年中行事の紹介本
『東都歳事記』(とうとさいじき) には、
「不忍池は江戸一番の蓮池。葉は水面を覆い、
蓮蕚 (れんがく) は鮮やかで、
芳香は特に素晴らしい。
これを見ようと人々は
夜明け前からこの地に集まる。
このため、この辺りでは荷葉飯 (はすのはめし) を
商う店が多く名物になっていた」
とあります。
不忍池(しのばずのいけ)

「不忍池」(しのばずのいけ) は、縄文時代には
東京湾の入り江が入り込んでいて
海と繋がっていました。
それから長い時間をかけて周囲の陸地化が進み
平安時代頃、入江が後退した際に取り残されて
池となったと考えられています。
「不忍池」(しのばずのいけ) と
呼ばれるようになったのは室町時代頃。
上野のお山が「忍が岡」(しのぶがおか) と
呼ばれていたことからという説、
周囲に笹が多く茂って輪のようであったため
「篠輪津」(しのわづ) が転じていう説など、
諸説あります。
東叡山寛永寺の創建

江戸時代になると
「不忍池」は観光地化しました。
それは、徳川家康、秀忠、家光の三人の将軍に
仕えた僧侶・天海僧正 (てんかいそうじょう) が、
寛永2年(1625)に、忍が岡に
「寛永寺」を創建したことに始まります。

寛永寺創建の際、東の比叡山と位置づけて
山号を「東叡山」(とうえいざん) とし、
延暦寺が京都の鬼門を守る役割があったように
江戸城の鬼門を「寛永寺」が守る役割を
あてました。
『江戸名所図会』(1836)によると、
「寛永寺」創建の際に
「不忍池」を近江の琵琶湖になぞらえ、
竹生島 (ちくぶじま) を模して中島を築いて
弁財堂「中島辨財天」建立したとあります。
中島は初めは離れ島で橋はなく
参詣者は船で往来しましたが、
寛文年間 (1661-73) の末頃に道を築いて
地続きになったことから、
参詣が便利になりました。
戦災で建物は焼失してしまいましたが、
本尊の弁天様は幸いに無事で
現在に伝えられているそうです。
夏の花見「蓮見」
蓮見(はすみ/はちすみ)

また夏になると「不忍池」には
紅白の蓮の花が咲き乱れたことから、
春の「花見」に夏の「蓮見」も加わって、
多くの人が江戸中から集まり、
江戸を代表する観光名所になったのです。
「蓮」は、花托 (かたく) が
蜂の巣に似ていることから、元々、
「はちす」と呼ばれていました。
そこから変化して 「はす」 になりました。
泥の中で育ち、
水面に出て美しい花をつける「蓮」は、
古くから、縁起が良く有難い花と
されてきました。
蓮の花は早朝に開花し、
午前中に花を閉じ蕾の状態に戻るため、
これを見ようと人々は夜明け前から
この地に集まって来ました。

そんな蓮見の客のために「不忍池」の畔には、
60軒もの料理茶屋が並び大賑わいだった
そうです。
江戸時代の「茶屋」は、一般的には、
道端や寺社の境内などで、お茶や軽食を提供し、旅人や参詣者が休憩出来る場所を指しました。
蓮飯(はすめし)

料理茶屋で出されたのは、
蓮の葉の香りが立つ「蓮飯」(はすめし) でした。
「蓮飯」に用いる蓮の巻葉を採るために、
「不忍池」には蓮取り舟も出ました。

ところで「蓮飯」は多種多様にあったようです。
そして「去年はあの店で食べたから、
今年はこの店で食べてみよう」と考えるのも
「蓮見」の楽しみの一つだったようです。
『本朝食鑑』(1697)の「荷葉飯」(はすのはめし) は新しい荷葉に飯を包みよく蒸して食べるものと
しています。
『黒白精味集』(1746)の蓮飯は
「蓮の巻葉を随分細かに刻み、
菜飯のごとく塩少し入れ飯を炊き、
蓮の葉の大きなるへ釜より直に移し包み、
暫く置て出す也。よき飯也」とあります。
『料理伊名波包丁』(1773)の蓮飯は
「蓮の葉をよくよく洗ひて米の上へ覆て
蒸すべし。
飯出来て後また他の蓮の葉に移して
暫く包み置べし」とあります。
『料理調法集』(1857)には
「蓮葉を煎じ、その汁にてたく也」という
「蓮飯」がありました。
まだ夏の蒸し暑さを感じさせない早朝に、
水辺の美しい蓮の花を眺めながら、
時には蓮見酒とともに、
蓮の香りを感じながら「蓮飯」に舌鼓を打つ、
何とも贅沢な納涼を楽しんだのでした。
釣り

「不忍池」は
「放生池」(ほうじょうち) であったことから、
蓮の間に供養のために放たれた亀や鯉、
鳥などが繁殖していました。
そこに目をつけて、
こっそり釣りをする輩もいました。

勿論、魚鳥を採ることは禁止されていたので、
こうした不埒な輩を取り締まるため
「山同心」と呼ばれる警護などを行っていた
武士が見回りを行っていました。
出合茶屋(であいぢゃや)

出合茶屋とは、人目を忍ぶ男女密会の場で、
今のラブホテルに相当します。
上野の「不忍池」周辺は出合茶屋のメッカで、
「不忍池」には蓮が群生しているところから、
「蓮の茶屋」とか「池の茶屋」と
呼ばれていました。

出合茶屋を利用したのは、
概ね人目を憚かられるカップルであったため、
一見、料理茶屋を装っていて、
「料理処」という看板を掲げている店もあり、
どの店でも本当に食事を出しました。
泊りはなく、料金は食事つきで1分
(4分の1両。今の1万円以上)が相場。
また当時、不義密通は重罪であり、
死罪となる危険もあったため、
取締りなどに備えて、客席を二階に設け、
出入口は二か所以上になっていました。
出合茶屋を忍んで利用したとされているのは、
大店の未亡人と若い番頭とか、
「寛永寺」に将軍や御台所の代理で参拝に来た
(「寛永寺代参」という)江戸城大奥の女中達が、
帰りに弁天様にお参りすると言って、
上野にあるお寺の若い坊さんと一緒に入った
とか。
なお天保の改革(1841-1843)で出合茶屋は
全て取り潰しになってしまいました。
なお、京都や大坂では盆屋 (ぼんや) と言い、
料金は江戸より安い代わりに、
酒肴を出さないなどの差があったようです。