うまずたゆまず

コツコツと

涼み舟(すずみぶね)

 

 

大川で夕涼み

江戸時代、人々は様々な方法で
蒸し暑い日本の夏を乗り切りました。
江戸の庶民の多くは、夕方になると涼を求めて
「大川(隅田川)」へ出掛けました。
江戸時代には、
千住大橋より下流を「隅田川」と呼び、
浅草付近では「浅草川」「宮戸川」、
両国付近では「両国川」、
吾妻橋から下流を「大川」と、
場所によって様々な呼び名がありました。
 
特に賑やかだったのは「両国橋」の橋詰。
橋の上で涼むのもいいのですが、
本格的に涼みたい人は、船に乗って
川の上で過ごすこともしました。
 
江戸の夏の大きなイベントと言えば、
大川(隅田川)両国の「川開き」です。
旧暦5月28日の「川開き」から
旧暦8月28日の「川じまい」までで、
「両国橋」の袂の広小路や川端には、
この納涼期間だけ出店許可の出た
芝居小屋や露店、屋台の夜店や、
船宿や料理茶屋が客をもてなすために出した
納涼船「涼み舟」などで賑わいました。
当時、「隅田川」は、
重要な交通、輸送路だったため、
江戸市民が川で遊ぶことは禁止されて
いました。
 
 
両国の「川開き」は、
八代将軍・徳川吉宗の時代の享保18(1733)年に
両国で初めて花火を打ち上げことに始まり、
その後も恒例になりました。

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なお「両国花火」は一日限りではなく、
納涼期間の3カ月中、随時花火が上げられ、
両国橋や両国広小路は連日、
武士も町人も、金持ちも貧乏人も
分け隔てなく、大勢の見物客で溢れました。
 
 
そして隅田川の川面には「涼み舟」や
「猪牙舟」(ちょきぶね) とか
「猪牙」(ちょさ) と呼ばれる小さい舟、
その周りで物を売る「うろうろ舟」などで
ごった返しました。
これらの花火は、「涼み船」の客の注文で、
いつでも座興に買っては打ち上げていた
ようです。
大店が出資者となって上げた「町人花火」、
諸大名が競い合った「大名花火」等でしたが、
特に人気だったのは、尾張・紀州・水戸の
徳川御三家による大変豪華な「御三家花火」
でした。
 

涼み舟(すずみぶね)

 
江戸時代には、暑い夏、
大川(隅田川)などに屋形船を出して、
涼を取ることが流行しました。
この納涼に用いた船を
「涼み舟」(すずみぶね) と言いました。
『甲子夜話』(かっしやわ) によれば、
慶長年間(1596-1615)に、
評定所から命じられて、吉原では、
遊女を給仕に召し出すことがよくあり、
その時は必ず船を用いたのですが、
夏の炎天の時などは、
か弱き遊女には難儀ということで、
船に屋根を載せ簾を掛けると、
その様が涼しげで風流だったことから、
これを真似て「屋形船」が造られるように
なったそうです。
 
江戸に幕府が開かれると、暑い夏、
大川(隅田川)での舟遊びが
とても盛んに行われるようになりました。
特に3代将軍家光の頃には、
大名達の贅沢は隅田川にとどめを刺すと
言われたほど豪華だったそうで、
大川(隅田川)が舟で埋まるほどの
盛況ぶりだったようです。
明暦3(1657)年に「明暦の大火(振紬火事)」で
江戸の市中が焼け野原となったことから
舟遊びも一時姿を消すことになりましたが、
江戸の町が復興すると、
人々の生活も次第に豪奢になっていき、
万治・寛文・延宝年間 (1658-1681) には、
大名、旗本、町人を問わず再び舟遊びが
盛んに行われるようになりました。
 
「涼み船」もだんだんと大きくなって、
17世紀中頃には長さが26間(約47m)、
船頭が18人乗りの屋形船もあったそうです。
また、座敷が9部屋に台所が1つあるので
「熊市丸(九間一丸)」や、
座敷8部屋と台所で「山市丸(八間一丸)」と
いう大屋形船もありました。
 
大きさだけでなく、
漆で鮮やかな朱塗りにしたり、
金銅の金具を付けてきらびやかに装飾し、
贅を競ったそうです。
しかし17世紀後半以降は、
幕府が度々の倹約令を出し、
屋形船の大きさや船数に制限をつけたため、
船は小型化し、質素なものとなりました。
 
町人達はと言うと、船宿や料理屋が所有する
「屋根舟」(やねぶね) で舟遊びを楽しみました。
「屋根舟」は「日除け舟」とも呼ばれ、
四本柱と屋根を付け、簾を掛けただけの小舟で
船頭は一人、櫓で漕いでいたそうです。
それでも18世紀後半には50~60艘だったのが、
19世紀初頭には500艘を超える船で
川面が埋まったという記録もあります。
 
 

猪牙舟(ちょきぶね)

江戸下町は川や堀が縦横に走っていたので、
移動時は舟が便利でした。
そこで明暦年間(1655-1658)に
船頭一人に客が一人か二人の
小型の高速艇が考え出されました。
この舟は「猪牙舟」(ちょきぶね) とか
単に「猪牙」(ちょき) と言いました。
 
 
「猪牙」(ちょき) という名前は、
舟の形が猪 (イノシシ) の牙に似ているから
「猪牙舟」になったという説もあれば、
長吉という船頭がが最初に造ったことから、
長吉が漕ぎ手として上手であったから
長吉 (ちょうきち) 舟が訛って、
「猪牙舟」になったという説もあります。
 
「猪牙舟」は、現代風に言えば
「水上タクシー」のような運搬手段でした。
船頭に頼めば、隅田川に架かる両国橋まで、
重い荷物を抱えて乗り込んでも
喜んで送り届けてくれそうです。
 
船頭達はその速さを競い、
他の「猪牙を負かす」ことが
速さの証しとされ、
これが転じて「チョロマカス」という
言葉が生まれたという説もあります。
 
浅草の吉原遊廓へ行く際にも利用されたため、
「山谷舟」とも呼ばれました。
 

うろうろ舟

江戸時代、両国の舟遊びの時などに、
遊山船の間を漕ぎ回って
「涼み舟」の客に花火を売る「花火船」の他、
「うろうろ船」と呼ばれる、餅や酒、
冷やし瓜などを売る小舟も数多く出て、
川面はとても賑わっていたそうです。
 
元々は「売ろ舟」と呼ばれていましたが、
ウロウロとあちこちを動き回る様子から
「うろうろ舟」と呼ばれるようになったと
言われています