うまずたゆまず

コツコツと

秋の終わりを表す言葉

 

秋の終わりを表す季語には、
「晩秋」「秋深し」「行く秋」「暮の秋」
などがあります。
「晩秋」(ばんしゅう) は、
時間を即物的に捉えるというのに対して、
「暮の秋」「行く秋」「秋深し」の順に
秋を惜しむ気持ちが濃くなっていきます。
 
 

晩秋(ばんしゅう)

 
日本の秋は、
「初秋」「中秋」「晩秋」に分かれますが、
その三秋の中の最後の季で、
新暦10月(旧暦9月)に当たります。
「初秋」「中秋」に比べて
「晩秋」には秋が終わっていく寂しさ、
冬の近づく侘しさがあります。
 

暮の秋(くれのあき)

 
「暮の秋」(くれのあき)とは、
秋がまさに果てようとする意味で、
秋も終わり近い頃のことを言います。
日一日と日暮れが早くなり、
秋風が物寂しく吹き、
冬が隣に感じられる儚さのこもった言葉で
「暮秋」「秋暮る」(あきくる)とも言います。
 
「暮の秋」と「秋の暮」は
混同されがちですが、
「秋の暮」(あきのくれ)には、
秋の末の意味もありますが、
秋の夕暮れを表わす言葉であるのに対し、
「暮の秋」(くれのあき)には、
秋という季節の終わりを表し、
秋の夕暮れの意味はありません。
 

行く秋(ゆくあき)

 
「行く秋」(ゆくあき)とは、
秋の終わりを表す言葉で、
過ぎ去ろうとする秋を言います。
「暮の秋」より一段と
秋を惜しむ気持ちが深まった言葉です。
 
また「暮の秋」が静的な捉え方であるのに対し、
「行く秋」には去りゆく秋を見送る思いが
より強くこもっています。
 
 
なお季節に「行く」という言葉が使われるのは
「春」と「秋」についてだけで、
「行く夏」「行く冬」とは言いません。
美しく過ごしやすい「春」と「秋」は
惜しむに値しますが、
暑い夏と寒い冬は惜しむ気になれないから
でしょう。
 

秋惜しむ(あきおしむ)

 
去り行く秋にしみじみと愛惜を感じることを
「秋惜しむ」(あきおしむ)と言います。
「行く秋」が客観的であるのに対し、
「秋惜しむ」はより主観の強い言葉です。
 
「行く秋」と同様、
春と秋は過ぎ去るのが惜しい季節なので、
「春惜しむ」「秋惜しむ」とは言いますが、
「夏惜しむ」「冬惜しむ」とは言いません。
 

秋深し(あきふかし)

 
秋も闌(たけわり)となり、
草木は紅葉し、大気は冷ややかに澄み、
哀しさ、寂しさに更けるようになります。
その喪失感、孤独感、虚無感などの
心理的な気持ちが漂うような時に用いる季語を
「秋深し」(あきふかし)と言います。
 
 
芭蕉の句に「秋深き隣は何をする人ぞ」
あります(『笈日記』)。
 
「何をする人ぞ」は、直訳すると
「どんな職業に携わっている人か」ですが、
勿論、芭蕉は隣人の職業を詮索している
訳ではありません。
 
一人寂しさも感じられる中、
隣から微かに聞こえて来る物音に、
たまたま縁あって今隣に居る隣人は
何をする人であろうかと、
人恋しさを表現した句です。
 
 
実は、「秋深き隣は何をする人ぞ」は、
芭蕉が起きて創作した最後の作品でした。
 
旅の途中で、大阪の宿で
体調を崩してしまった芭蕉は、
元禄7(1694)年9月28日には句会に参加しますが
翌29日は体調悪く、参加出来ないと考えて
この句を書き送りました。
 
秋がゆっくりと暮れていってしまうように、
人生もまた、こうして静かに暮れていくのか、このような芭蕉の思いが表れている一句です。
 
この句を詠んでから、芭蕉は寝込んでしまい、
病状は日に日に重くなっていきました。
10月8日深更に、芭蕉の辞世の句として有名な
「旅に病んで 夢は枯れ野を かけめぐる」を詠み
10月12日に亡くなりました。
51歳でした。
 
 

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冬隣(ふゆどなり)

 
冬が目と鼻の先に来ている晩秋の頃を、
「冬隣」と言い、こちらは秋の季語です。
 
10月末から11月初旬の「立冬」の直前にかけ、
日はどんどん短くなり、寒い風は吹き、
時には冷たい雨が降ることから、
もう冬が近い、これからいよいよ
厳しい寒さを迎えるという緊張感や孤独感が
込められた言葉です。
 
 
四季のどの言葉にも「隣」の一字を付けて、
「春隣」「夏隣」「秋隣」「冬隣」があり、
同じ意味合いの季語で「近し」を付けて、
「春近し」 「夏近し」 「秋近し」 「冬近し」もあり、
どちらも新しい季節が
もうそこに来ているという意味ですが、
それぞれに軽重はあります。
 
重苦しい冬の峠を越えて
春はもうすぐそこまで来ているという意味の「春隣り」と、
これから厳しい冬になるのだという
緊張した気分が込められた「冬隣り」が、
季節の言葉として定着しています。
 
一方「夏隣り」「秋隣り」は
イメージがもう一つはっきりせず、
口調も良くないことから、
夏と秋はもっぱら「夏近し」「秋近し」が
使われています。
 
また「春隣り」には来るべき新しい季節を
待ち焦がれる気持ちが込められていますが、
「冬隣り」には、ほのぼのとした気分は無く、寒さや暗さを感じて、
それに備えるという心構えが込められた
言葉になっています。