
1929年10月24日木曜日から約1カ月間、
米国のニューヨーク株式市場(ウォール街)に
壊滅的な打撃を与えることになった
「一連の株価の大暴落」のことを
「暗黒の木曜日」と言います。
「ブラックサーズデー(Black Thursday)」とか
「ウォール街大暴落」とも言います。
- 繁栄の20年代
- 暴落前夜
- 暗黒の木曜日(Black Thursday)
- 悲劇の火曜日(Tragedy Tuesday)
- 1929年の底値
- 楽観論
- 遅れた対策
- 20世紀最低値に
- 未曾有の世界恐慌に
- 歴史的大敗
繁栄の20年代
第一次世界大戦後、米国経済は
史上空前の大繁栄期を迎えました。
1890年代に英国の工業生産を凌駕した米国は、
急速に大量生産・大量販売・大量消費の社会へと
変化を遂げました。
1920年に初めて都市人口が農村人口を上回り
都市化の進展も目覚ましく、
それまでの自営農民や商店経営者などに加え、
一般事務職や管理職、専門職などの仕事が増え
新しい中産階級が多く誕生しました。
そういった中産階級の多くは、分割払いで
自動車や電話といった新技術を手に入れ、
ローンを組んでマイホーム所有しました。
こうした旺盛な購買力と消費意欲は、
分割払いによる「信用販売」によって支えられ
大手の金融会社から資金提供を受ける
専門の販売金融会社も多く設立されました。
このような「信用販売」は、
勤勉・節約・貯蓄などに関する消費者の意識を
大きく変えることになり、消費文化が花開き、
一般市民も株式市場への投資に熱狂するように
なりました。
人々を投機に駆り立てたもう一つの要因は
「ブローカーズ・ローン」と呼ばれる
信用取引でした。
これは手元の株を担保に借金し、
最大で手持資金の10倍まで投資出来ることから多くの人は「ブローカーズ・ローン」を組んで
投資を加速させていきました。
ただこれは、買った株が値上がりすれば
利益は10倍になりますが、
万が一株が下落したら損失も10倍になる
ハイリスク・ハイリターンの投資手法でした。
1927年下半期になると
「クーリッジ景気」と呼ばれた繁栄に
陰りも見え始めたのですが、
公定歩合の引き下げもあって、
株式相場は全般的に楽観的ムードが支配的で、
1928年3月に正式に大統領選挙が始まると、
株価は次第にせり上がって
取引高もうなぎ上りとなりました。
1928年11月6日、「遠からずしてこの国から
貧困が消え去る日がくるであろう」
「この家庭でも2羽の鶏、2台目の自動車が
当たり前のことになるであろう」と述べた
共和党の大統領候補のフーヴァー氏が
圧倒的な勝利を収めたことから、
ますます活発になりました。
翌1929年3月4日に第31代大統領に就いた
フーヴァー氏は就任演説で
「私は我が国の前途に不安を持っていない。
それは希望に輝いている」と述べるなど
「永遠の繁栄」を約束。
米国民は投機熱に酔いしれていました。
暴落前夜
こうした熱狂する株式相場に
色々な方面から警告が発せられた他、
1929年夏頃になると、
実態経済の面でも危険な兆候が
いくつも表れるようになりましたが、
1929年9月3日、ダウ工業平均株価は
381ドル17セントという
当時のピーク価格をヒットしました。
ただ市場はこの時から調整局面を迎え、
続く1か月間で17%下落した後、
その次の1週間は下落分の半分強程持ち直し、
その直後には再び上昇分が下落するという、
神経質な動きを見せるようになりました。
9月末にダウ工業平均は343ドルにまで下落、
10月4日にはGEなどの有力株が暴落し、
その後も激しい乱高下を繰り返し、
10月23日、NY証券取引所は「売り」圧力で
ダウ工業平均株価が前日の325ドルから一挙に305ドルにまで暴落しました。
暗黒の木曜日
(Black Thursday)
そして運命の翌10月24日の木曜日、
寄り付きは前日の終値とあまり変わらず、
一見株価は手堅く見えましが、
次第にケネコット株やGM株などに
大量の売り注文が入ったのを皮切りに、
連鎖的に株の売りが始まりました。
「商い」が成立する度に株価は下落し、
取引所の組織全体が麻醇状態となりました。
またトーマス・エジソン発明の
「ティッカー(株価電信表示機)」が
機能不全に陥って
リアルタイムでの株価更新が出来なくなると、
正確な情報を得られない恐怖心から
人々は次々と株を手放していったことから、
市場は更に混乱していきました。
十分な株価暴落の情報が得られないことに
苛立った投資家の中には、
NY証券取引所に直接押しかける者も多くなり、
ウォール街には治安維持の目的で
400名程の特別警備隊が差し向けられる
事態に陥りました。
正午を過ぎた頃、「バンカーズ・プール」と
呼ばれる銀行家集団が株式市場の買い支えを
決めたというニュースが立会場に伝わると、
後場になって相場は持ち直しました。
しかしシカゴとバッファロー市場は閉鎖され、
投機業者で自殺した者は
この日だけで11人に及びました。
この日は木曜日だったため、後にこの日は
「暗黒の木曜日(Black Thursday)」と
呼ばれることになりました。
10月25日(金)にはフーヴァー大統領が
「我が国の基本的事業、
すなわち商品の生産と分配は、
健全かつ繁栄した基礎の上にある」と
国民へのメッセージを発表したこともあり、
10月25、26日は、株価は落ち着きを取り戻した
ように見えました。
悲劇の火曜日
(Tragedy Tuesday)
しかし週末に全米の新聞が
暴落を大々的に報じたことや、
株式ブームの終篤を実感した証券業者の多くが
日曜日返上で顧客に夥しい数の
追い証(マージンコール)を督促する
電報を打ったこともあって、
明けて10月28日月曜日の株式市場は
寄り付きから追い証(マージンコール)に
迫られた投資家の売りが殺到し、
ダウ工業平均株価は38ドル、率にして14.8%も
暴落しました。
更に10月29日の火曜日は、ウォール街は
既に立会いが始まる前の早朝から、
銀行などがコールローンを引き上げるなど、
パニック状態に陥っていました。
そして取引が開始されると最初の30分間で
通常の約1日分の出来高326万が売られ、
その後も24日の「暗黒の木曜日」超える
激しい投げ売り圧力に押されて
壊滅的な大暴落が起こったことから、
「悲劇の火曜日(Tragedy Tuesday)」と
呼ばれることになりました。
当日の出来高は1638万3700株に達し、
株価は平均43ポイント下がり、
ダウ工業平均株価は天井をつけた9月3日の
381ドル17セント約40%も下落して230ドルに、
1日で時価総額140億ドルが消し飛びました。
10月29日の混乱の中、前場終了後、
NY証券取引所は秘かに理事会を開きます。
理事らの中からは、取引所閉鎖を求める声も
多く挙がりましたが、結局踏み切れずに、
翌30日の水曜日も立会いを継続。
株価は一旦、上がり始めたことから
混乱は収まるようにも感じられましたが、
結局、30日の午後1時40分、
翌日の木曜日正午までと金・土の終日に渡って
取引所を閉鎖することを発表しました。
1929年の底値
11月に入ってNY証券取引所は再開されましたが
再び下げ一方の相場展開となり、
遂に11月13日にダウ工業平均株価は198.7ドルと
1929年の最安値に落ち込みました。
これは9月3日の最高値381.17ドルの
約半分の水準でした。
12月4日、フーヴァー大統領は、
景気刺激策として、
連邦農務局の運転資金の追加支出や
公共土木事業費の増額を議会に要求した他、
個人及び法人の所得税の税率を暫定的に
1%だけ引下げ、1930年の所得税の総額を
1億6千万ドル程減税するよう勧告しました。
楽観論
その後は市場も落ち着きを取り戻し、
1930年4月17日にはダウ工業平均株価が
294.07まで上昇するなど
かなり改善の兆しを見せ始めました。
この回復を受けて、一部の経済専門家や
政府の積極的な動きを望まない
実業界・金融界は危機が終息したとの見方を
示しました。
景気回復を、市場経済の
自律的な回復メカニズムに委ね、
連邦政府の介入を極力行わないという
政治哲学の信奉者であった
フーヴァー大統領は周期的な不況と考えて、
1年以内の回復を予想し、当面の対策を立てず、
「好景気はもうそこまで来ている」
(Prosperity is just around the corner.)
「我々は前世紀に十五回にも及ぶ大きな不況を
切り抜けた。‥‥その不況を切り抜ける毎に
‥‥前にもました繁栄の時期を迎えた。
今度もそうなるだろう」
と楽観的なメッセージを繰り返しました。
遅れた対策
しかしこの反発は、
一時的なものに過ぎませんでした。
ダウ工業平均株価は1930年4月の高値を境に、
「より長く、着実な下落」局面に入り、
その後2年以上に渡って低迷を続けました。
不況は長引き、恐慌の様相は
更にハッキリしてきました。
10月の暴落直前に一桁台であった失業率は、
最悪期には25%近傍にまで悪化しました。
実質GDPは暴落直前との比較で、
最大マイナス30%もの悪化を示しました。
こうした経済恐慌は金融危機をも引き起こし、
流動性危機の中で取り付け騒ぎが頻発し、
全米で45%もの銀行で預金が封鎖され、
その結果、30年から33年の間に、
全体の30%近くにも当たる9000もの銀行が
破綻に追い込まれました。
こうなると商工会議所、アメリカ労働総同盟等
諸団体は総合的な不況対策を
政府に要求するようになりました。
また地方政府は、失業者救済のための支出を
増加させ、公共事業費の削減を進めました。
大規模な公共事業計画
これに対しフーヴァー大統領は、
1932年7月に、「緊急救済・建設法(EmergencyRelief and Construction Act of 1932, P.L.72-302)」を制定し、
各州に対し、公共事業拡大の一環として、
ハイウェイ緊急建設への補助金を配分。
また「復興金融公社」「私有住宅金融公社」の
設立を実現させました。
しかし地方で減少した公共事業費を
埋め合わせるには至りませんでした。
ところが財政支出の拡大に対して、
均衡財政を図るため、
個人・法人所得税の税率引上げ、
物品税の導入などを盛り込んだ
「1932 年歳入法(Revenue Act of 1932, P.L.72-154)」を成立させます。
これは平時における
史上最大規模の増税策となったことから、
需要が更に減退してしまい、
更に不況を悪化させる要因になりました。
スムート・ホーリー関税法
「狂乱の20年代」を謳歌した米国ですが、
第1次世界大戦の終結に伴う米国内需要の減少、
欧州農業の回復の中で大きく失速した中で、
米国の農家は不況に喘いでいました。
更に農家はこの所得の減少を、
一層の農作物の増産で対処しようとしたことで
逆に需要と供給のバランスが大きく崩され、
農家は農産物の過剰生産によって
更に所得を減少させる悪循環に陥っていました。
フーヴァー大統領は
1928年大統領選挙戦の中で
農産物輸入関税の引き上げを
公約していたこともあり、
1930年6月17日に、「スムート・ホーリー関税法
(Smoot-Hawley Tariff Act、 1930年関税法)」を
制定しました。
この法律は当初、
自国内の農業を保護するという目的でしたが、
農業以外の産業界からのロビー活動も活発化。
特に1929年10月の株価暴落後、
保護主義的な風潮が強まり、
法案の対象は農産物以外にも拡大され、
最終的な目的は、米国産業と労働者を
外国との競争から保護することへと変化。
農産物にとどまらず、約2万品目に
平均50%程度の関税が課されることに
なってしまいました。
これに対して、米国の貿易相手国が
次々と報復関税を打ち出した結果、
米国の輸出入は半分以下に落ち込んだ上、
各国の工業生産も大きく落ち込み、
世界恐慌(大恐慌)を更に長期化・深刻化
させてしまいました。
フーヴァー=モラトリアム
フーヴァー大統領は世界恐慌への対策として、
1931年6月に提案し,7月に関係国の同意を得て
「フーヴァー=モラトリアム
(Hoover Moratorium)」と呼ばれる政策を
打ち出しました。
これは第一次世界大戦によって発生した
ドイツの賠償金と戦債の支払いを1年間猶予し、
恐慌の世界への波及を抑え、経済の回復を
図るというものでした。
しかし既にドイツなど欧州経済は
壊滅的な打撃を受けていたため、
見込んでいたような効果を得ることは
出来ませんでした。
20世紀最低値に
特に1920年代から続いていた
過剰生産と価格下落による農業不況が、
1930年代初頭の深刻な干ばつにより
状況を更に悪化させました。
更に1930年から1933年にかけて
銀行の取り付け騒ぎと破綻が相次いだことは、
預金者の資産を消失させただけでなく、
貸出を著しく困難にしたことから、
株価は1930年4月を戻り天井に、
1932年7月8日には41.22ドルという
20世紀における最安値へと至りました。
最高値381.17からの下落率は89.2%でした。
NY証券取引所に上場している株式の時価総額は
1929年9月の896億6,827万6,854ドルが
1932年5月には156億3,347万9,577ドルと
総額にして740億ドル、ピーク時の実に82%が
株式市場から消滅してしまったのです。
未曾有の世界恐慌に
ダウ工業平均株価は若干もち直したものの、
1933年2月に再び50ドルの底値を付けるまで
下落し続けました。
1929年10月24日の「暗黒の木曜日」から
その頃までに既に全米で6千もの銀行が倒産し、
推定される失業者数は約1,300万人にも上り
失業率も25%に達していました。
ダウ工業平均株価は1954年11月まで
1929年の水準に戻りませんでした。
歴史的大敗
結局フーヴァー政権の対策は遅きに失し、
傷口を拡大させてしまい、
未曾有の世界恐慌に対して有効な政策が
取ることは出来ませんでした。
失業しホームレスとなった人々は、
都市の公園にバラックを建てて生活します。
このバラックは「フーバー村」と呼ばれました。
各地で政府に対するデモ抗議が頻発し、
大統領の人気は急落。
そして1932年の大統領選挙で民主党の
フランクリン・ルーズベルトに40州以上で
敗北する歴史的大敗を喫しました。
1933年の任期満了をもって大統領職を退き、
政界からも引退しました。