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陰陽五行説

「陰陽五行説」とは、
古代Chinaに生れた自然界の理を説く思想のひとつで、
「陰陽説」や「五行説」を融合した思想です。
 
 

「陰陽五行説」とは

 
「陰陽五行説」は、
紀元前3000年頃に成立したChinaの「陰陽思想」と、
紀元前2000年頃の「五行思想」が合わさって誕生したものです。
2つの思想をまとめたのは、
紀元前300年頃の斉(せい)の思想家、鄒衍(すうえん)と言われます。
 
「陰陽五行思想」では、
森羅万象は「陰」と「陽」の2つのタイプに分類され、
それは更に「五行」と呼ばれる
5つのタイプ(水・金・土・火・木)に分けられ、
この思想に基づいて考えることで、
宇宙に存在する全てのものが説明出来るとされました。
具体的には、自然や人間の生活を形成する
日・月・年や季節、方位など全てを説明し、
儒教や医学、天文学などの学問や音楽など、
China文化の根幹を支える理論として重要なものです。
 
陰陽説
「陰陽説」は「五行説」が誕生するより遥か昔からありました。
古代Chinaの神話に出てくる皇帝・伏儀(ふくぎ)が説いたという説や、
それよりも古くからあったという説もあります。
 
その昔、宇宙は混沌とした気(エネルギー)の状態であったとされます。
上も下も、右も左も無く、全ては1つで、比べるものもありません。
そこからやがて、「陽」の気が上がって天になり、
「陰」の地が下に留まって大地になったと考えられています。
「陰」と「陽」の始まりです。
 
「陰陽説」は、簡単に言えば
「万物全てのものは陰と陽で構成される」という考え方です。
「陰」と「陽」はどちらか一方では成り立たず、
一方がなければもう一方も存在しません。
そして「陰」と「陽」の要素はお互いの過不足を補いながら、
最適なバランスを保っています。
そしてこの二つのバランスは絶対的に定まったものではなく、
その時々で相対的な2つの性質が上手くバランスを取り合って、
流動的に変化します。
 
「陰」と「陽」とは、元々2つの対となる物事を表しています。
 
「陰」は、内側に蓄えた静かなエネルギーです。
感情や感覚といった心理的な性質を持つため、
外のものを受け入れる性質も持っており、
受容し、適応する性質があります。
 
一方「陽」は、外側に放出される動的なエネルギーです。
思考や論理といった自分の意識に基づいた活発な性質を持ちます。
 
「陰」という言葉だけを見ると、
何となくマイナスのイメージを持ってしまいがちですが、
「陰」と「陽」は、
どちらが良くてどちらが悪いといった類のものではありません。
「女性」という概念がなければ「男性」というのも存在しないように、
反対側の存在があってこそ、もう一方も成り立つのです。
更に、「陰」と「陽」とは表裏一体で、互いに緩く交わり合っています。
昼はやがて夜になり、夏はやがて冬になるように、
完全な「陰」、完全な「陽」の世界は存在しません。
 
代表的な陰陽の区分

🌑

太陽
偶数 奇数
暗さ 明るさ
柔らかさ 剛さ
植物 動物
女性 男性
 
陰陽太極図

陰陽太極図いんようたいきょくず」は「陰陽思想」をシンボル化したものです。
ずっと後の宋(960~1279年)に出来ました。
黒色が「陰」で、白色が「陽」を表しており、
黒色の中に白い円が、白色の中に黒い円が描かれています。
これは「陰」の性質の中にも「陽」のエネルギーが潜んでいること、
「陽」の性質の中にも「陰」のエネルギーが潜んでいることを示しています。
そして、黒と白は真ん中で完全に二等分されているのではなく、
ぐるぐる回っているかのように描かれています。
このことは、「陰」が強まっていくとやがて「陽」へ、
「陽」が強まっていくとやがて「陰」へと変化していくことを表しています。
 
 
五行説とは

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「五行説」は、万物は「水」「金」「土」「木」「火」の
5要素で構成されていると考えた思想です。
「陰陽説」よりだいぶ後の時代の
夏王朝の創始者・禹(う)によって説かれたと言われています。
 
この5つの要素(水・金・土・木・火)はお互いに影響し合い、
お互いの性質を助け合ったり、打ち消し合ったりすることで、
あらゆるものがバランスを保っていると考えます。
 
隣同士の関係を「相生(そうじょう)関係」と言い、
向き合った関係を「相克(そうこく)関係」と言い
お互いに影響しています。
また、同じもの同士の関係を「比和(ひわ)」と言います。
 
相生関係

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隣り合う「木 ⇨ 火 ⇨ 土 ⇨ 金 ⇨ 水 ⇨ 木 ⇨」は、
「水」を吸って「木」が育ち、
「木」を燃やして「火」が栄えます。
「火」は燃え尽きると「土」になり、
「土」の中から「金」属が生じます。
「金」属は溶けると「水」に戻ります。
隣り合うものに勝っていき、一周すると同じ強さだということが分かります。
「相性が良い」という言葉は、ここから生まれました。
 
相克関係
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これに反して、「木 ⇨ 土 ⇨ 水 ⇨ 火 ⇨ 金 ⇨ 木 ⇨」と並べると、
「水」は「火」を消し、
「火」は「金」属を溶かします。
「金」属は「木」を切り倒し、
「木」は「土」から養分を吸い取りますが、
「土」は「水」を堰き止めることが出来ます。
向かい合う関係は、抑制して調節する関係だと言われています。
 
比和
「水」と「水」、「火」と「火」などの同じもの同士の関係を、
「比和」(ひわ)と言います。
同じもの同士は、相乗効果によりますます勢いが盛んになり、
良い方向へいけばとても良くなりますが、
悪い方向へいけばとても悪くなってしまいます。
例えば、「木」が燃え続けると「火」はやがて消えてしまい、
「水」が溢れ続ければ「木」は腐ってしまいます。
「水」が付き過ぎたら「金」属は錆びてしまうし、
「金」を採り過ぎたら「土」も無くなってしまいます。
「火」が燃えた灰が溜まり過ぎると「土」の処理能力が追い付かなくなります。
 
相生関係によって力を増し、
相克関係によって勢いのバランスを取っています。
どれか一つが欠けてもいけないし、
力関係が崩れたら全体がおかしくなってしまうのです。
 
 

日本での陰陽五行説

 
日本に「陰陽五行説」が伝わったのは飛鳥時代(592~710年)です。
暦が官暦として採用され、
仏法や陰陽五行思想・暦法などを更に吸収するため、
607年には「遣隋使」の派遣が始められます。
他にも聖徳太子による「十七条憲法」や「冠位十二階の制定」などに
「陰陽五行思想」の影響が現れることになりました。
 
そして718年には「陰陽寮」(おんみょうりょう)
「中務省」(なかつかさしょう)の一機関として設けられ、
官僚として「陰陽師」(おんみょうじ)が置かれました。
「陰陽師」達は天体観測や占星、暦の作成や地相(ちそう)などを
専門に行いました。
そして「陰陽博士」(おんみょうはかせ)という役職の教官が
「陰陽師」(おんみょうじ)の教育を掌いました。
 
 
「陰陽五行説」は
天文学、暦学、易学、時計などとも関連が深かったので、
当時の最新の科学技術として受け入れられました。
特に天体学者は重宝され、太陽や月や星の運行によって
国の進むべき指針や自然を読み解き、占う方法として
政治への影響力を持つようになりました。
更に災害や怪異な現象を”ものの祟り”だとする
平安貴族の神秘主義的傾向により日本独自に発展していき、
天皇や公卿、貴族の日常の全てを支配するようになりました。
 
このように、「陰陽五行説」を起源として
日本で独自の発展を遂げた呪術や占術の技術体系を
「陰陽道」(おんみょうどう)と言います。
そして明治時代(1868~1912年)に西洋流の考え方が広まるまで、
日本での生活に欠かせない役割を担いました。
 

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律令制が厳しい時代には、認められた「陰陽師」以外の者が
「陰陽道」を学ぶことを厳しく禁止されていました。
奈良時代から平安時代初期にかけては大津氏・弓削氏・滋岳氏などが、
平安中期には惟宗氏・安倍氏・賀茂氏などが世業としていましたが、
平安後期以後は「歴道の賀茂家」と「天文道の安倍家」の
二家による世襲となりました。
有名な陰陽師・安倍晴明(921~1005)もこの時代の人です。
 

 
武家でも、鎌倉幕府は陰陽師を用いて卜筮や祈祷を行わせました。
また民間でも、仏教の加持祈祷をしたり、
神道の祓を行なったりする神職の一種のようなことをして、
学術と占いを両立して、様々な現象を検証し解決する陰陽師が現れました。
その一方で、家相・人相見・口寄せなどや、
狐や狸などを使って怪奇を告げて
人をたぶらかして金銭を奪う者まで現れたことから、
江戸時代には陰陽師の横行を禁止しました。
 
そして、明治維新後の明治5(1872)年、
明治政府により「陰陽道」は迷信として廃止されました。
これにより、「陰陽道」や「陰陽五行説」は衰退の一途を辿っていきました。
但し、現在でも数は少なくなったものの、陰陽師の家系は残っているようです。