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春の雁(はるのかり)

 
「雁」(かり・がん)は、
晩秋にシベリアから日本へ渡って来て越冬し、翌春、北へ帰って行く渡り鳥です。
夕暮れの空に雁が編隊を組んで飛ぶ姿や
静かな田園風景に雁の声が響く情景などは、
秋の風物詩として愛されており、
特に秋の深まりと寂しさを象徴しています。
という訳で、「雁」は秋の季語になります。
 
 
ですが、春、3月〜4月頃になって
「雁」がシベリア方面へ帰る様子も
古人の印象に強く残ったのでしょう。
寂しさと希望を秘めた春の風情として詠まれ、
「帰雁」「雁帰る」「行く雁」「雁の別れ」
「名残の雁」「春の雁」というと
「春」の季語になります 。
 
 

春の雁(はるのかり)

 
 
七十二候が
ツバメの渡来とは入れ替わりに、
冬を日本で過ごした雁が
北のシベリアへと帰って行く頃となりました。

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「雁」は、春になると、
それぞれ群になって帰って行きます。
 
北へ向かって「帰る雁」を指したり、
何かの理由で仲間はずれになったり、
病んだり傷ついたりして帰られず
その群に加わらずに「残る雁」
指す場合あります。
 
 
暖かい春の陽気の中で旅立つ様子は、
寂しさや切なさを感じさせる
情緒的な景色として、
古くから文学や俳句で親しまれてきました。
 

鳥帰る

 
日本で越冬した渡り鳥が、
春になり北方へ帰って行くことを
「鳥帰る」と言います。
白鳥、雁、鴨など大型の鳥から、
(つぐみ) や鶸 (ひわ) などの小鳥まで、
たくさんの種類が秋冬に渡って来ては、
春に去って行きます。
 

帰雁・雁帰る

 
春になると、日本で越冬した様々な冬鳥が
北方へ帰って行きますが、
中でも哀れ深いものとして「雁」は、
和歌などの詠まれてきました。
 
北国へ帰っていく「雁」のことを
「帰雁」(きがん)・「雁帰る」(かりかえる)
言います。
 
「行く雁」(ゆくかり)
「雁の別れ」(かりのわかれ)
「名残の雁」(なごりのかり)
「いまわの雁」などいう季語もあります。
 
 
 
桜や月、山里の自然を好み、
世の無常と美しさを「あはれ」として愛した
平安末期から鎌倉初期の歌人である西行は、
「帰る雁(春に北国へ帰る雁)」をテーマに、
離別の寂しさや春の風情を詠んだ歌を
多く残しています。
 
何となく不安に感じられるのは、
空の彼方、霞の中に消えていってしまう
帰る雁の姿であるよ。
 
 春霞立つを見捨ててゆく雁は
 花なき里に住みやならへる
春霞が立ち込める(美しい)のを
見捨てて去っていく雁は、
桜の花がない田舎に住み慣れてしまって
いるのだろうか。
 
 帰る雁にちがふ雲路のつばくらめ
 こまかにこれや書ける玉章 (たまづさ)
(北へ帰る)帰る雁と入れ違うように
やって来る(雲の上の道を通る)燕達。
彼らが細かく書いて持って来た
手紙なのだろうか(燕が春を告げる)。
 

残る雁(のこるかり)

「残る雁」(のこるかり) とは、
春になっても北国へ帰らず、
日本に残っている雁を指す晩春の季語です。
 
病気や怪我などで仲間の群れから遅れ、
そのまま残っている雁のことで、
取り残された侘しさや寂しさを表す季語です。
俳句において季節の移ろいと哀愁を表現する
際に用いられています。
 

雁風呂(がんぶろ)

青森県津軽地方には、
「雁風呂」(がんぶろ) という伝承があります。
 
「雁風呂」の伝承とは
これは、「雁」が北へ帰った後、
海岸に残っていた小枝を拾って、
それを薪にして風呂を焚き、
北国へ帰れなかった雁を供養するという
江戸時代の『採薬使記』などに記録された
自然の厳しさと人の優しさを描いたお話です。
古典落語の演目にもなっていて、
春の季語にもなっています。
『採薬使記』(さいやくしき) は、江戸時代中期
幕府の命により、幕府の採薬使である
阿部将翁(照任)と松井重康が、
諸国で採集した薬草や植物の記録をまとめた
全3巻の本草書です。
享保年間の薬物調査の様子を伝える
貴重な史料であり、
当時の物産政策や植物相を知る上で
重要視されています。
 
毎年秋に北から渡って来た「雁」は、
渡って来る途中の海上で羽を休めるために
小枝をくわえて来ると言われます。
「雁」は浜に着くと小枝を落とし、
次の春、また北へ帰る時に同じ小枝を拾って
帰るのだそうです。
 
 
ところが、「雁」達が小枝を落とした浜には、
春になっても拾われない小枝が残ります。
それは冬の間に死んでしまった雁達のもの。
そこで浜の人達は、「雁」を供養するために
その枝で風呂を焚いたというのです。
 
水戸黄門漫遊記
 
上方落語や講談の『水戸黄門漫遊記』に
描かれるエピソードとしても知られています。
 
 
『水戸黄門漫遊記』とは、
徳川光圀(黄門)が隠居して
日本各地を漫遊して行なった世直しを描いた
勧善懲悪の創作物語の名称で、
講談、歌舞伎、演劇、小説、映画、TVドラマ、
漫画、アニメなどで描かれてきました。
 
『水戸黄門記~雁風呂由来』あらすじ
水戸光圀公は隠居して常陸国の西山に住んでいる。松雪庵元起 (しょうせつあんげんき) という
お気に入りの俳諧の師を引き連れて、
奥州・北国の古蹟をめぐるお忍びの旅に出る。
やって来たのは奥州の須賀川という町である。
下の者達と同じような食事がしたいと思い、
みすぼらしい一軒の一膳飯屋に入り昼食を取る。
染み豆腐は角が取れ歯が立たないほど固い。
シャケの塩引きは口が曲がるほどしょっぱい。
メイ(カタツムリ)の三杯酢はヌルヌルして
気持ち悪い。
とんだ飯屋に入ってしまったものだ。
 
食事を終え茶を飲んでいると、
古びた衝立に目が留まった。
大きな松の木に数十羽の雁が止まった絵が
描かれている。画工の名は書かれていない。
飯屋の主に聞くと、
寺からの払い出し物で市で求めたものだと言う。
光圀公も元起も、この絵のいわれが分からない。
 
衝立の向こう側で食事していた一人の若い商人が
絵をしげしげと見ている二人に気付いた。
身なりはみすぼらしいがどことなく品のある
この商人は次のように語る。
これは奥州・外ヶ浜の松であるという。
雁は蝦夷地に生息しているが、寒冷の地なので
冬になるとエサが採れなくなる。
そこで津軽の海を南へと渡るが、
この際に木の小枝を一本口にくわえ、
翼が疲れると枝を海に落としそこに掴まって
休息をする。
休息が終わるとまた枝をくわえ飛んでいく。
津軽の外ヶ浜までくると、
小枝を浜辺に捨てて奥州の各地へ旅立っていく。
春になると蝦夷地へ帰るが、その時に、外ヶ浜に
一旦捨てた小枝をまたくわえていく。
雁が飛び立った後、主のない小枝が山のように
残る。
これは、不幸にも病気で命を落としたり、
猟師に捕獲されたりした雁の残した物である。
外ヶ浜では村人がこの小枝を集めて湯を沸かし、
風呂に入る。
こうすると妊婦は安産すると伝えられている。
これを「雁風呂」や「雁供養」と呼ばれている。
この衝立の松はこのような故事から描かれたもの
であろうと言う。
 
光圀公がこの絵を描いたのは何者かと問うと、
「土佐光起かと存じます」と商人は答える。
自分は和学にも漢学にも通じていると思っていた
が分からないことはあるものだ。
商人の博識に光圀公は感心する。
 
   
 
光圀公は自身の名を名乗ると、
驚いた商人は土間に降りて平伏する。
今度は光圀が商人の名を尋ねると、
大坂・北浜の二代目淀屋辰五郎であると答える。
淀屋辰五郎といえば日本でも一番という
大商人である。
光圀公もまた驚く。
淀屋は涙を流しながらこれまでの子細を話す。
幕閣の柳沢吉保公により家の財産を没収され、
大坂から所払いになった。
諸国を遍歴し、大名諸侯の屋敷を方々巡り、
これまでに貸した金の一部だけでも返して欲しいと頼み込むが、落ちぶれた淀屋辰五郎を
相手にする大名はいない。
なんでも没収となった家財のほとんどが
柳沢の懐に入ったという話である。
 
  
 
光圀公はこれを聞いて、
事実だとすればとんでもないことだと怒る。
光圀公は各大名宛てに、これまでに淀屋から
借りた金のうち何分の一でも良いから返すように
との書き付けを認めて淀屋に渡す。
大名達はこぞって金を返済し、淀屋辰五郎の元には300万両という大金が集まる。
こうして大坂に帰り、淀屋の店を再興することが
出来たという。
 
古典落語では、
水戸黄門の一行が東海道掛川宿の茶店で
淀屋辰五郎の息子に出遭い、
松に雁 (かりがね) が描かれた屏風の由来や、
柳沢美濃守に用立てた三千両を返してもらう
ために江戸に向かう途中と聞きます。
不憫に思った黄門様は辰五郎に、
「もし柳沢家で三千両下げ渡しなき時は、
 江戸の上屋敷に願い出れば
 三千両を下げ渡す」
という目録に印を押して与えます。
辰五郎の伴の喜助が
「旦那、柳沢様で払わなんだら
 水戸様のお屋敷に行って・・・どっち道、
 取りっぱぐれのない三千両・・・、
 雁風呂の話一つで三千両とは、
 高い雁 (かりがね) ですな」
それに対して辰五郎
「そのはずじゃ、
 貸金 (かしがね) を取りに行くのじゃ」
というオチがあります。
 

雁瘡癒ゆ(がんがさいゆ)

「雁瘡」(がんがさ・がんそう) とは、
秋から冬にかけて雁が渡来する頃に発症し、
雁が帰る頃に治るとされた、
非常に痒みの強い慢性的な湿疹性皮膚病の
古称です。
現代の「アトピー性皮膚炎」に相当すると
推測されています。
 
「雁瘡癒ゆ」(がんそうさいゆ) とは、
雁が来る頃に出来た湿疹性皮膚病の「雁瘡」が
雁が帰る春になって治る治ることを言います。