江戸時代の「お花見」
江戸時代、「お花見」は
一年で最も楽しみなイベントの一つでした。
今でこそ「お花見」と言えば、
「桜」の方が一般的ですが、
江戸時代の「お花見」は
「梅に始まり菊に終わる」と言われ、
梅が咲けば梅園に出かけ、
桜が咲けばみんなで花見の宴会、
藤が咲けば藤見という具合に、
桜の他にも、梅・桃・桜草・躑躅 (つつじ)・
山吹・藤・牡丹・萩・菊など、
四季折々の多様な「お花見」を楽しみました。
『江戸名所花暦』
(えどめいしょはなごよみ)

四季折々の多様な「お花見」を楽しむための
ガイドブックがいくつも刊行されました。
特に、文政10(1827)年に刊行された
『江戸名所花暦』(えどめいしょはなごよみ) は、
岡山鳥 (おかさんちょう) が
花鳥風月の名所178箇所を
四季を計43項目に分類して紹介し、
長谷川 雪旦 (はせがわ せったん) が
25枚の挿絵を描いた名所紹介本です。
「春」は鶯、梅、桜、
「夏」は蛍、納涼、蓮、
「秋」は萩、月、虫、
「冬」は寒梅、松、枯野、雪見など、
それぞれの名所や名木の解説、由来、
場所の道順を詳しく手際良く紹介しているため
江戸庶民の間で広く親しまれました。
その年の秋には第2版が出され、
天保8(1837)年に第3版が出されています。
梅見(うめみ)

「梅は百花の魁 (さきがけ)」と言われるように、
寒い冬をじっと耐えて
春の訪れを一番に知らせてくれます。
全ての花に魁て「芽」を生み出すこの木に、
力強い御霊 (みたま) が宿ると信じ
「うめ」と名付けたという説もあります。

「梅」の花を見て楽しむことを
「観梅」(かんばい)、「梅見」(うめみ) などと言い、
梅は古くから観賞用として栽培され、
奈良時代や平安時代には、
貴族や歌人達が「観梅の宴」を開いて、
その上品で優雅な香りに酔いしれました。

時代が下って江戸時代になると、
庶民も「お花見」を楽しむようになると、
待ちわびた春の訪れを感じようと、
「梅」の名所へ出掛けて、
人々は一日中その香りに包まれながら
「梅見」を愉しみました。

江戸時代の冬は今よりとても寒く、
小氷河期に入っていたとも言われ、
江戸中期以降は
隅田川が三度も凍りつくほどで、
江戸の人々はとても寒い冬を過ごした
ようです。
そのためでしょうか。
早く春が来て欲しいという思いは切実で、
「梅の盛り」の時期は
梅は切り花や盆栽・庭木として愛でられ、
人々は「梅見」に繰り出しました。
新暦の2月下旬から4月上旬頃に当たる
旧暦の2月には「梅見月」(うめみづき) という
別名もあります。
今年、令和7(2025)年は、寒波の影響で
梅の開花が遅れているようですので、
「梅見」に出掛けてはいかがですか?

『江戸名所花暦』
~ 江戸の梅の名所

『江戸名所花暦』の「巻一 春之部」では、
江戸の梅の名所として、
梅屋敷、亀戸天満宮境内、御嶽社、百花園、
駒込鰻縄手 (うなぎなわて)、茅野 (かやの) 天神境内、
宇米茶屋 (うめがちゃや)、
麻布竜土組屋敷 (あざぶりゆうどくみやしき) 、
蒲田村、杉田村の10箇所を紹介しています。

江戸時代後期、江戸の町では、
園芸が空前の大ブームとなり、
将軍から大名、旗本、
更には町人などの庶民に至るまで
庭で草木を育て、室内には生け花を飾り、
花や緑を愛でました。
多くの花梅の品種は
江戸時代に作られたと言われています。

そしてその盛況ぶりを示すように、
江戸には「梅の名所」が生まれます。
なお、江戸の梅は通人が好むとされました。
梅屋敷(うめやしき)

江戸近郊の梅の名所として最も有名だったのが
亀戸にあった「梅屋敷」(うめやしき) です。
立春の頃になると江戸中から人々が
北十間川や竪川を船でやって来て、
大層賑わったと言います。
『江戸名所花暦』にも梅の名所の第一に
この「梅屋敷」を挙げていて、
「本所亀戸天満宮より三丁ほど東のかた、
清香庵 (せいきょうあん) 喜右衛門が庭中に
臥龍梅 (がりょうばい) と唱うる名木あり」
としています。
「梅屋敷」(うめやしき) の正式名称は
「清香庵」(せいきょうあん) といって、
呉服商・伊勢屋彦右衛門の別荘内にある
建物でした。

ここには300本もの梅の木が植えられ、
特に、庭園の中を数十丈(150m)に渡り
枝が地中に入ったり出たりして
まるで竜が地を這っているかのような形状の
梅の古木「臥竜梅」(がりょうばい) が有名で、
水戸光圀の命名と伝えられています。
八代将軍・吉宗も一旦土に入った枝が、
再び地上に這い出る様を生命の循環に擬えて、
「世継ぎの梅」と命名し賞賛したそうです。
なお園内では、土産物として
「臥竜梅」の梅干も販売されていたそうです。
現在の江東区亀戸3丁目の辺りにありましたが、
「清香庵」は安政の江戸地震(1855)で潰れ、
名木の「臥龍梅」(がりょうばい) は
明治43(1910)年の水害で枯死したことから、
明治末には廃園になったそうです。
亀戸天満宮境内

亀戸天神社の境内には様々な種類の
約300本を超す紅白の梅が植えられており、
現在も毎年2月から3月上旬には
「梅まつり」が行われています。
令和7(2025)年は2月2日(日)から3月2日(日)に
開催されています。
御嶽社(みたけのやしろ)
亀戸天神社の本殿東側に建てられている
「御嶽社」(みたけのやしろ) は、
卯の神として知られ、1月の「初卯」(はつう) は
多くの人々で賑わいます。
卯の神は、火災除け、雪除け、商売繁盛、
開運の神様です。
百花園

「百花園」とは、現在の
「向島百花園」(むこうじまひゃっかえん) の
ことです。
文化元(1804)年に、仙台出身で
日本橋の骨董商の佐原鞠塢 (さはらきくう) が
幕臣の多賀家屋敷跡に
万葉植物など日本古来の草木を集めて
造園した庭園です。

360本の梅が主体であったことから、
江戸後期の画家・酒井抱一が
「梅は百花の魁」の意から名付けました。
当初は「亀戸梅屋敷」に対して、
「新梅屋敷」(しんうめやしき) とも呼ばれました。
年中、花が絶えることがなく、
梅は白梅が多かったと言われています。
『江戸名所花暦』にも
「寺島村のうちなり。
白髭明神のわき、俗呼んで新梅屋敷といふ。
白梅おほし。諸木・薬草のたぐひ数多あり。
季候の所々にいだす。
園中に年中花たゆることなし。」とあります。
現在は都営庭園となり、例年、梅の咲く時期に
「梅まつり」が開催されています。
令和7(2025)年は2月8日(土)から3月2日(日)です。
駒込鰻縄手 (うなぎなわて)
現在の文京区向丘1丁目と2丁目の間の
本郷通りのことで、
江戸時代、この通りの両側は
大番組・先手組の与力・同心組屋敷、
寺院や門前町でした。
この辺りは、かつて植木屋が多く
植木縄手 (うえきなわて) とか
苗木縄手 (なえぎなわて) と呼んでいたのが、
誤って「うなぎ」となったという説、
道が斜めにうねっているので
「うなぎ縄手」と呼んだという説があります。
茅野 (かやの) 天神境内

増上寺地中松林院内に安置されている
茅野天神のことで、現在、神社はありません。
「天神信仰」は梅との関係性が深く、
同所でも多くの梅が咲いていたようです。
宇米茶屋(うめがちゃや)
現在の港区白金2丁目1番地。
『江戸名所花暦』には、
「麻布三子坂(白金の三光坂)にあり。
一重の白梅なり。正月下旬盛りなり。
外よりは遅し。古木なり。
遊行陀阿一海上人、この梅に題して歌あり。
『この花の白かね名に高く
千歳をこめてみのるとこうめ』」
とあります。
宇米茶屋 (うめがちゃや) は、
一重の白梅が咲くことで知られ、他よりも遅い
正月下旬が見頃だと紹介しています。
麻布竜土組屋敷(あざぶりょうどくみやしき)

現在の港区六本木7丁目9、10、11番地辺り。
『江戸名所花暦』には、
「立春より6、70日目。
梅樹、家ごとの入り口にあるもあり。
または後園にあるもあり。」とあります。
「麻布竜土組屋敷」(あざぶりゅうどくみやしき) は、
御先手組屋敷のことで、
麻布龍土町の先手鉄炮組の組屋敷には、
家毎の入口や後園(家の後ろの庭)に
梅が植えられていたということです。
「御先手組」(おさきてぐみ) とは、
江戸幕府にあった職名です。
「弓組」と「鉄砲組」とに分かれ、
江戸城諸門の警備、将軍外出の際の護衛、
常時には火付盗賊改 (ひつけとうぞくあらため) として放火犯や盗賊の取り締まり、
江戸市中の巡視を担当していました。
蒲田村

現在の大田区蒲田2、3丁目辺り。
『江戸名所花暦』には、
「大森の右のかた、郊野(のみち)に数多し。
文政(1818-30)の初めの頃、梅木堂和中散、
この後園ならびに往還の両側へ
梅樹五百本を植ゑ、
見勢より北のかた枝折戸をしつらひ、
蒲田といへる二大字の額をかけたり。
野梅をのこらずここにあつめ、
一眼に見渡すなり。
そのほか、園中種々の花あり。
なほ花の部分のところどころに出だす。」
とあります。
蒲田村に梅園が出来たのは文政年間のこと。
薬屋を営んでいた山本忠左衛門が
江戸時代の家庭用常備薬「和中散」(わちゅうさん) の売薬所を開いた敷地内に、
息子の久三郎が梅や多くの木々を植え、
東海道の休み茶屋を開いたことに始まると
言われています。
梅の開花期には、多くの人で賑わいました。
この辺りには梅園が多くあったそうです。
杉田村

神奈川県磯子区杉田4、5丁目辺り。
『江戸名所花暦』には、
「東海道中程が谷宿より金沢道の方へ
一里ほど行けば、民家のはた一面なり。
実は種小さく、
もっぱら江戸にてこれを賞玩す。
花のころは東都の遊客旅立ちぬ。」
とあります。

天正年間(1573-92)杉田村一帯の領主だった
間宮信繁は、農地には適さないこの地に
数多くの梅を栽培し、元禄年間には
3万6千本もの梅があったと言われています。
江戸後期になって、
『江戸名所花暦』などで紹介されたことにより
梅の名所として、文人墨客が多く訪れるようになりました。
しかし、明治以降は塩害などの影響もあって、
現在は往時の面影が僅かに見られるだけと
なっています。