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亥の子の祝い(いのこのいわい)

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亥の月(旧暦10月、現在の11月頃)の
最初の亥の日、亥の時間に行われる
収穫祭「亥の子の祝い」(いのこのいわい)という
行事があります。
 
農作物の収穫祝いを始め、
子供をたくさん産むイノシシにあやかって、
「亥の子餅」やイノシシのお菓子などを食べて
子孫繁栄や収穫祝い、無病息災を祈ります。
 
また、亥が火に強いことから、
この日に「こたつ開き」や「炉開き」をすると
火災を逃れられると言われています。
 
 

 

「亥の子の祝い」とは?

「亥の子の祝い」とは、
亥の月(旧暦10月、現在の11月頃)の
最初の亥の日、亥の時間に行われる
収穫祭のことです。
地域によっては、「亥の子の祭り」
「お亥の子さん」などとも呼ばれています。
  • 亥の月 (旧暦10月、現在の11月頃)
  • 最初の亥の日
  • 亥の時間(21時~23時)
 
令和5(2023)年の「亥の日」はいつ?
「亥の日」とは、「亥の月」(旧暦の10月) の
最初の「亥の日」です。
令和5(2023)年の「亥の日」は、
11月13日[月]になります。
11月01日[水]も「亥の日」ですが、
この日は旧暦の9月18日ですから、
旧暦の10月の最初の「亥の日」ではありません。
 
「亥の子の祝い」(いのこのいわい)
主に西日本で行われている行事で、
東日本では旧暦10月10日の「十日夜」(とおかんや)
という行事に当たります。
 
「亥の子」の由来は?
「亥の子」の由来は、古代中国にあります。
古代中国では、亥の月・亥の日・亥の刻に、
穀物の入った餅を食べて無病息災を願う
「亥子祝」(いのこいわい)という宮中儀式が
ありました。
 
平安時代になると、
この古代中国の「亥子祝」が伝来し、
貴族の間で風習として広まりました。
 
『源氏物語』第9帖「葵」には
「亥の子餅」が登場する場面があります。
光源氏の正妻であった葵の上は、
六条御息所の生霊の仕業で、難産の末、
夕霧を出産しますが、8月20日に急死します。
四十九日が済んでまもなく、
源氏は紫の上と密かに結婚します。
その新婚第二夜に
「光源氏と一緒にいる紫の上のもとに
 美しい容器に入った亥の子餅が届けられた」
と書かれています。
鎌倉時代になると、
中世に武士の守護神として信仰され、
武家にも同じような儀式が広まりました。
護身除災や開運勝利などの御利益があり、
戦いに強く決して負けないと信じられた
「摩利支天」(まりしてん)が
イノシシに乗っていたためです。
イノシシは猪突猛進というように、
「勇気」「速さ」の象徴でもあります。
 
 
また猪(いのしし)が多産であることから
「子孫繁栄」を願う意味も含まれ、
「亥の子餅」を食したと伝えられています。
また「亥の日」が収穫時期であったことから、
農家の人達の間で収穫儀礼のひとつとして
西日本を中心に普及していきました。
またイノシシの多産が収量の多さに結び付いて
「亥の子神」は作り神・田の神として
信仰されるようになりました。
 
江戸時代になると、亥の月の最初の亥の日を
「玄猪の日」(げんちょのひ)と定め、
江戸城では「玄猪御祝」(げんちょおいわい)
行っていたそうです。
 
 
暮れ六つ前に、諸大名や旗本方が登城をし、
将軍から紅白の餅を賜る
「御餅頂戴」という儀式が行われました。
夜にかけての行事の為、
大手御門や桜田御門外では大篝火を焚かれ、
城中では部屋毎に火鉢が出されました。
暖房の入れ始めですね。
 

亥の子餅(いのこもち)

「亥の子餅」とは
「亥の子餅」とは、無病息災を願って
「亥の月」の最初の「亥の日」の「亥の刻」に
食べられてきたお菓子です。
 
 
その名の通り、イノシシの形をしていたり、
「ウリ坊」のような三本筋の縞模様を
焼きごてで付けた餅に餡を詰めた
きな粉餅が一般的です。
 
 
地域によって呼び方が変わり、
「玄猪餅」(げんちょもち)、「能勢餅」(のせもち)
「厳重餅」(げんじゅうもち) とも呼ばれています。
 
「ウリ坊」
「ウリ坊」は猪の子供時代の呼び名で、
地域によっては、「うりっこ」「うりんこ」などとも呼ばれています。
猪の子供が「ウリ坊」と呼ばれる理由は、
外的から身を守るためにある体の縞々模様が
「縞瓜」(しまうり)に似ているためです。
猪の子供は一度に3~5頭程生まれても
1年後も生き残ることが出来るのはその半分程度。
なお、大人になると縞々模様は完全に消えて、
全身くすんだ黒や茶色の毛になります。
 
 
「亥の子餅」(いのこもち)は、
古代中国の「亥子祝」の時に食べられていた
穀物の入ったお餅が由来となっています。
 
お餅を食べる風習も日本に伝わり、
大豆・小豆・大角豆(ささげ)・胡麻・
栗・柿・糖(あめ)といった七種類の粉を
その年に収穫された新米に混ぜて作られたと
言われています。
そして宮中や将軍、領主らは、
配下の者や領民達に
この餅を授ける習わしがありました。
 
「玄猪餅の包」
「玄猪餅(亥の子餅、玄の子餅、猪の子餅)」を
将軍家が与える時の包み方を
「玄猪餅の包」と言います。
この餅の包みには、位階その他により
折形が区別されていたと言われています。
 
また包みの内の掻敷にも様々な決まりがあり、
一番目の「亥の日」にはしのぶの葉と菊、
二番目の「亥の日」にはしのぶの葉と紅葉、
三番目の「亥の日」にはしのぶの葉と銀杏の葉
を敷くなどしたようです。
 
旧暦の10月の亥の日亥の刻に
「亥の子餅」を食べる風習は
薄れてしまっていますが、
今でも10月下旬~11月になると、
期間限定の秋の和菓子として親しまれ、
「亥の子餅」が各地の和菓子屋やスーパーに
並びます。
 
また京都の護王神社では、毎年11月1日に
亥子祭」が斎行され、
平安時代の宮中行事が再現されます。
祭儀を終えると、「亥子餅」を京都御所に献上する
「禁裏御玄猪調貢ノ儀」
(きんりおげんちょちょうこうのぎ)が行われ、
調貢行列を作って京都御所に献上されます。
 
炉開きの定番茶席菓子
 
茶道では、お湯を湧かすのに
5月〜10月は「風炉」と呼ばれる卓上式のものを
11月からは、茶室の疊を切って備え付けられている「炉」を使います。

この「炉」に切り替える「炉開き」は、
亥の月・亥の日が選ばれています。
そして、この日の茶席のお菓子として
「亥の子餅」は定番とされてきました。
 

亥の子祭り

宮中行事であった「亥の子の祝い」は、
やがて収穫祭りと結び付いて
民間の行事としても定着し、
西日本でも「亥の子祭り」が行われています。
 
「亥の子祭り」(いのこまつり)では、
子供達が「亥の子唄」を歌いながら
「亥の子突き」をして地域の家々を回って、
「亥の子餅」やお菓子、お小遣いをもらいます。
持ち帰った「亥の子餅」を食べると、
無病息災で過ごせると考えられていました。
 
「亥の子突き」(いのこつき)
「亥の子突き」とは、
子供達が亥の子唄を歌いながら
大きな石に数本の縄をつけた「石亥の子」や
新しく収穫された藁で作った「亥の子槌」で
地面を叩いたり突いたりすることです。
 
景行天皇由来説
「亥の子祝い」は、景行天皇が九州の土蜘蛛族を滅ぼした際に「椿の槌で地面を打った」ことに
由来するという説があります。
 
亥の子唄


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「亥の子唄」とは、「亥の子突き」の時に
子供達が歌う唄です。
歌詞は、地域によって異なるのですが、
その多くが数え唄や囃子唄となっており、
無病息災を願う縁起を担いだ内容となって
います。
 
亥の子餅やお菓子などを
振る舞ってくれない家に対しては、
悪口を言うような歌詞も存在するようです。
 


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主に西日本を中心に行われる
「亥の子の祭り」は、
西日本を中心とした祭りです。
東日本ではあまり知られておらず、
「亥の子祭」そのものが行われていません。
代わりに「十日夜」(とおかんや)と言われる
収穫祭を兼ねたようなお月見が行われています。
 

「炉開き」「炬燵開き」をする

「亥の日」は、「炉開き」だけでなく、
囲炉裏や炬燵、火鉢などを使い始める日でも
ありました。
 
「亥」は陰陽五行説では
「水性」に当たることから、
「火災から逃れる」という縁起担ぎに
起因します。
また「亥」は炎の神である
「摩利支天」(まりしてん)の神使なので、
「亥」は火を免れる(火災が起こらない)と
考えられたためでもありました。
 
江戸時代の庶民の間では、
亥の月の亥の日を選び、
囲炉裏(いろり)や炬燵(こたつ)を開いて、
火鉢を出し始るという風習が出来上がりました。