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寒固(かんがため)

江戸時代には、「寒の入り」に
堅いものを食べる習わしがありました。
これを「寒固」(かんがため)と言います。
 
 
江戸時代の文化3(1806)年に発行された
歳時記『改正月令博物筌』
(かいせいげつれいはくぶつせん)には、
「寒の入りにあづきを喰へば、
 寒気にあたらず」とあり、
「寒の入り」に小豆を食べる
習わしがあったことが分かります。
 
 
御所でも、
「寒の入り」に小豆餅を食べると、
病気にならないとして、
「寒の入り」のお昼食の前に、
「煮冷や水」(にひやみず)と言って、
お皿に盛られた黒餡餅と、
小豆とにんにくのみじん切りを
それぞれ猪口に入れたものに、
一回沸騰させてから冷ました水を
両陛下の御前に供したそうです。
 
 
 
両陛下は、汁茶碗に小豆とにんにくを
お入れになり、水を注ぐと、
にんにくの臭いを嗅いで、
飲む所作をされたようです。
そしてこれは、公家の家庭では
どこでも行われていた習慣のようだそうです。
 

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更に、寒に入って4日目の「寒四郎」、
9日目の「寒九」にも
「小豆餅」を食べる風習は各地にありました。
風邪を引かぬよう、気を引き締めるための
儀式の一つだったようです。
 
 
今でも北陸地方には、「寒の入り」に
「小豆餅」を食べる習俗があります。
 
 
ところで、静岡県浜松市中央区には、
「小豆餅」(あずきもち)という地名があります。
元亀3年12月22日(1573年1月25日)、
徳川家康が、武田信玄公と戦った
「三方ヶ原の戦い」に敗れて
浜松城へ逃げ帰る途中、
小さな茶店を見つけて小豆餅を頬張ったその時、
敵の気配を感じた家康は銭を払わずに
茶店を飛び出し慌てて逃げました。
店主の老婆は「銭を!」と追いかけ、
やっとの思いで家康に追いつき、
銭を取りました。
 
 
このエピソードから
餅を食べた場所は「小豆餅」、
銭を取った場所は「銭取」(ぜにとり)となり、
「小豆餅」の方は、現在も浜松の地名として残っています。
因みに、「小豆餅」と「銭取」の距離は
およそ6km程です。
随分と健脚な老婆ですね。