その年最初の「庚申」(かのえさる) の日のことを
「初庚申」(はつこうしん) と言います。
この日は「帝釈天」の最初の縁日で、
各地の「帝釈天」を祀る寺や「庚申堂」は
悪疫除去・亡霊鎮護を祈る参詣者で
賑わいます。

祭神としては、仏教では「帝釈天」や
「青面金剛」(しょうめんこんごう)、
神道では「猿田彦」を祀りしています。
大阪・四天王寺の「庚申堂」

大阪・四天王寺の境外にある「庚申堂」は、
「青面金剛童子」(しょうめんこんごうどうじ) を祀る
諸国「庚申」の本寺とされ、
60日に一度、年に6度の庚申の日には、
庚申堂に参拝し息災を願う
「庚申まいり」が行われています。
文武天皇の時代の伝承に由来する習俗であり、大阪市の無形民俗文化財に指定されています。
「庚申堂」(こうしんどう) は、
今から1300余年前の飛鳥時代、
様々な疫病が流行った際に
四天王寺の僧・毫範 (ごうはん) の夢に
帝釈天の使者である青面金剛童子が現われ、
毫範に除災無病の力を与え、それによって
病は去っていったという言い伝えがあります。
それが大宝元(701)年正月7日の
「庚申」の刻であったために、
60日おきに来る「庚申」の日に
「青面金剛童子」を祀る
「庚申会」が始まったとされます。
「庚申日」とその前日の縁日に
御本尊に祈れば、必ず願いは叶えられると
言われていることから、参拝者で賑わいます。
特に「初庚申」が盛大です。

「北を向いて黙ってこんにゃくを食べると
願い事が叶う」と言われていることから、
「庚申日」の縁日には境内に
「北向こんにゃく」の出店が現れ、
「庚申こんにゃく」が販売されます。

また「庚申」の日には
開運や厄除の意味を込めて
「昆布」を食べる風習があり、
庚申堂門前には、
「庚申まいり」に欠かせない縁起物
「庚申昆布」が販売されています。
「庚申まいり」に来られなかった人に
お土産に「庚申昆布」を持ち帰ると、
参拝するのと同等の開運厄除の御利益を
授かることが出来るとも言われています。
かつて庚申堂へ向かう街道は、
「庚申街道」と呼ばれ、
「庚申昆布」を商う店が数軒あったそうですが
今は「梅須磨商店」だけだそうです。
「梅須磨商店」では通年「厄除開運昆布」が
販売されているそうですので、
縁起物の「庚申昆布」をお求めになっては
いかがですか。
かつては盗難除けの
「七色菓子」も販売されましたが、
現在は「七色守り」となっています。
柴又帝釈天の「初庚申」

東京都葛飾区にある「柴又帝釈天」は、
寛永6(1629)年の開山の日蓮宗のお寺です。
「柴又帝釈天」では「庚申日」、
日蓮上人が自ら刻んだと伝えられている
御本尊の「帝釈天板本尊」が御開帳されます。
片面に「南無妙法蓮華経」の題目と
「法華経薬王品」(やくおうぼん) の要文、
片面には右手に剣を持った「帝釈天像」です。
薬王品(やくおうぼん)
仏教では「品」とは「章」、
英語で言うと「チャプター」のことで、
薬王という菩薩のことが書かれている章。
実はこの御本尊、開山間もないある時期、
所在不明になっていました。
それが、9代・日敬 (にちきょう) の時代に、
本堂を修理したところ、
棟木の上からこの御本尊を発見。
発見されたのが安永8(1779)年の
「庚申」(かのえさる) の日であったことから、
「柴又帝釈天」の縁日は「庚申」の日と
なりました。
当時、江戸の町では「庚申信仰」が盛んでした。
「柴又に帝釈天が庚申の日に出現した」ことは
江戸中で話題となり、
「柴又の帝釈天」として有名になったそうです。
それから4年ほど経った天明3(1783)年、
江戸の町は「天明の大飢饉」に
飢饉、疫病が蔓延しました。
天明の大飢饉(てんめいのだいききん)
江戸四大飢饉の1つで、江戸時代中期の
天明2~8(1782-1788)年にかけて発生した
飢饉。
冷害、洪水などの天候不順に加えて、
世界的に火山活動が激しく、
噴煙が日光を遮断したことも要因。
この時、日敬上人は自ら「板本尊」を背負って
「南無妙法蓮華経」と唱えながら歩き、
天明の大飢饉に苦しむ人々に拝ませたところ、
不思議な効験があったため、
「柴又帝釈天」への信仰が広まったそうです。