令和6(2024)年12月22日(日)は、
今年最後の「庚申」(かのえさる) の縁日です。
「庚申」(かのえさる) は60日毎に巡ってくるので
11月のこともあれば12月のこともあります。
各地の帝釈天や庚申堂は、
多くの参拝者で賑わいます。
干支の「庚申」(かのえさる) の夜に、
人間の体の中にいる三尸 (さんし) という虫が、
寝ている間に体から脱け出して、
寿命を司る神である天帝に
その人間の行った悪行を告げ口するために
天に昇ると言われています。
三尸の虫は、人間が寝ている間にしか体から
脱け出ることが出来ないので、庚申日には、
夜を徹して酒宴を催す風習があります。
これを「庚申待ち」と言います。
東京では葛飾区柴又の 「柴又帝釈天」 が有名で、
前夜の宵庚申から多くの人出で賑わいます。
柴又帝釈天の正式名称は、
「経栄山 題経寺」(きょうえいざん だいきょうじ) という日蓮宗のお寺です。
寛永6(1629)年、日栄上人 (にちえいしょうにん) が
柴又に寄った際に、立派な枝を持つ松と、
その下に霊泉が湧いているのを見つけ、
庵を結んだのが寺の始まりと言われています。
なお松の木は「帝釈堂」の手前にあり、
「瑞龍 (ずいりゅう) の松」と呼ばれ、
東京都の天然記念物にも指定されています。
京都市東山区にある天台宗の
「八坂庚申堂」(やさかこうしんどう) では、
午前11時・午後3時・6時から護摩焚きが行われ、
猿の形にくり抜いた
「厄除けのこんにゃく」が振る舞われます。
「八坂庚申堂」は、
正式名は「大黒山 金剛寺 庚申堂」
(だいこくさん こんごうじ こうしんどう) という
元々は天台宗のお寺で
「庚申信仰」とは無関係でしたが、
御本尊の「青面金剛」(せいめんこんごう) が
三尸の虫を食べると言われることから、
庚申待ちの夜に拝まれる対象となり、
「八坂庚申堂」は庚申信仰発祥の地として
広く親しまれるようになったそうです。
なお「八坂庚申堂」は、
大阪の四天王寺庚申堂、東京の入谷庚申堂と
ともに「日本三庚申」の一つとされています。
「庚申待ち」のために
様々なことを行って徹夜をしていましたが、
「青面金剛」が三尸の虫を喰ってしまうのでいつの頃からか、「庚申待ち」には、
「青面金剛」を本尊として拝むようになり、
「庚申」=「青面金剛」となり、
この日、一晩一心に願い続ければ、如何なる
願いも叶うとされるようになりました。
御本尊の「青面金剛」(せいめんこんごう) は、
元は渡来系秦氏の守り本尊でしたが、
平安時代に秦氏滅亡の際に、
一般の人も気軽に参拝出来るようにと
天徳4(960)年、平安時代中期の天台宗の僧・
浄蔵貴所 (じょうぞうきしょ) が
「八坂庚申堂」を創建しました。
この浄蔵貴所 (じょうぞうきしょ) という人物は、
葛城山、大峯山等で修験道の修行を行い、
同時代の京都では、あの陰陽師・安倍晴明に
勝るとも劣らない超人的な法力・神通力で
つとに知られた存在でした。
修験者として大峯山に入山する姿が
「祇園祭」の山伏山の御神体となっている
ほどです。
京都市内にある浄蔵貴所ゆかりの地は、
京都屈指のパワースポットとして有名です。
例えば、かつてあの世とこの世の境目とされ、
百鬼夜行伝説が残る「一条戻橋」の
「戻橋」(もどりばし) という名は
実は浄蔵貴所に由来しています。
浄蔵貴所の父親・三善清行の葬列が
ここを通った際、熊野帰りの浄蔵が駆けつけ
加持祈祷を行うと生き返ったことから、
「戻橋」という名称になったのだそうです。
また「八坂庚申堂」は、
病気平癒の「コンニャク封じ」が有名で、
腰痛・頭痛・神経痛などに
御利益があるとされていますが、
これは、父親・三善清行が病気をした時、
祈祷にコンニャクを捧げたところ
無事に治癒したことに由来しています。
「庚申」の日には、猿の形にくり抜いた
「厄除けのコンニャク」が振舞われますので、
北に向かって無言で食べて下さい。
1年間、無病息災で過ごせるそうです。
境内で一際目を引くのが
カラフルな布地の「くくり猿」です。
「くくり猿」は青面金剛の使いで、
欲望のまま行動する猿の手足を縛ることで、
落ち着かぬ心を括りつけて不動にし、
欲に走らないようにと戒めを意味しています。
「くくり猿」のお守りもあり、
欲を一つ我慢することで、
願いを叶えてくれると言われています。
また授与所脇には、石の表面に
太陽(陽)と三日月(陰)の形が刻まれた
珍しい「庚申塚」があります。
このように「八坂庚申堂」は、
「青面金剛」「くくり猿」「庚申塚」など、
仏教のみならず、
庚申信仰を始め様々な信仰に通じた
浄蔵貴所のハイブリッドな思想が反映された
お寺と言えます。