「庚申」の日は、
平安時代にChinaから伝来し、
以後、仏教・神道・修験道などと習合して
日本独特のものとなった「庚申信仰」に
由来しています。

人の体内には「三尸」(さんし)という
3匹の虫が潜んでいると考えられていました。
<三尸(さんし)>
上尸 (じょうし) |
人の頭の中に潜み、 首から上の病気を引き起こす虫 |
中尸 (ちゅうし) |
人の腹の中に潜み、 臓器の病気を引き起こす虫 |
下尸 (げし) |
人の足の中に潜み、 腰から上の病気を引き起こす虫 |
この人体内にいる「三尸」の虫は、
人が死ねば自由になれるので、
人の寿命を縮めようと常々、隙を窺っています。
普段は体内から出ることは出来ないのですが、
「庚申」の日だけ、人が眠っている間に
体内から出ていくと考えられていました。
「三尸の虫」は、人が眠った後、
眠っている身体からこっそりと抜け出し、
天上の「帝釈天」の所へ行き、
その人の60日間の行状を報告します。
つまり、密告者であり、 情報伝達人であり、
敵中に潜んだスパイです!
「帝釈天」は、
悪事・悪心の報告を受けると、
その人の寿命を減らしていきます。
寿命を縮められては大変ですから、
三尸の虫を食べてしまうとされる
「青面金剛 」を祀ったり、
三尸の虫が
身体から抜け出す隙を与えないように、
「庚申の夜」は徹夜して一睡もしないで、
宴席などを設けて夜を明かす
「庚申待ち 」をしたりしました。
「庚申」の日は「帝釈天」の縁日になります。
また「猿田毘古神 」が「庚申」としても
信仰されています。
猿田毘古神は天孫降臨の折、
道の神や旅人の神とされるようになり、
「道祖神」と同一視された神として知られています。
そんな「猿田毘古神」は、
「庚申」とは元々関係なかったようですが、
江戸時代に垂加神道創設の山崎闇斎 が
万治3(1659)年著述の『大和小学』の中で、
「庚申の主尊は猿田彦である」としたものが
徐々に広がったようです。
「猿」に因み、庚申の日には祭りを行って、
「災難が去る」「幸福が訪れる」という信心を
集めてきました
平安時代の貴族は、この日に
「庚申御遊 」という宴を催しました。
鎌倉時代から室町時代には
武家社会でも取り入れられました。
江戸時代に入ると全盛を迎え、
「庚申待ち」として、
夜を徹して会食談義する庶民の風習に発展しました。
そして、「庚申待ち」を18回繰り返すと、
その記録として
「庚申塔」や「庚申天」と刻んだ石碑を
建てるようになりました。
「庚申塔」には、
「庚申」あるいは「青面金剛」の文字、
または「青面金剛」の像や
「青面金剛」の従者とされる「三猿」の像が
刻まれています。
「三猿」
「見ざる」「聞かざる」「言わざる」の三匹の猿
「庚申待ち」は、
最初は一応の儀礼で始まりますが、
後は雑談になります。
眠気を誘う話は禁物で、世間話や悪口など、
夜通し話せる題材が歓迎されました。
「庚申」の日には男と女の関係もご法度!
平安時代、冷泉天皇の女御、藤原超子は、
「庚申」の夜、 殿方を交えて侍女達と
双六・貝合わせ・扇投げなどをして
徹夜で過ごしていましたが、
明け方、脇息に寄りかかったと思うと、
そのまま眠るようにして、
いつの間にか息絶えていたと言われています。
江戸時代、巷間には、
「庚申の夜に身ごもった子は盗賊になる」
という俗説が信じられていました。
古川柳集の柳多留に、
「五右衛門が親 庚申の夜をわすれ」
という句があります。
天下の大泥棒の石川五右衛門の親達は、
「庚申」の夜であることをうっかり忘れて
楽しんだのだろうという意味です。
「庚申を あくる日聞いて 嫁こまり」
というのもあります。
ただ「庚申」の日に生まれた子は、
幸運で丈夫で利口で、
大人物に出世するという説もあったことから、
泥棒にならずに幸せに暮らせるよう、
形式的な捨て子をしたり、
鍋のツルをくぐらせるといった呪いをしたり、
出生日を変えたりしました。
明治時代に入ると、
政府により「庚申信仰は迷信だ」ということで
石碑の多くは破壊・撤去されてしまいましたが、
今でも「日本三大庚申」といって、
「庚申信仰」は伝えられています。
<日本三大庚申>
また「庚申」の日は
「陽性」の「金」気が充満する日とも言われ、
このことから商売や相場など、
お金に関わる物事を行うのによい日とも言われてます。
令和5年の「庚申の日」
60日毎に巡ってくる「庚申の日」。
令和5年は以下の日になります。
- 1月 2日(月)
- 3月 3日(金)
- 5月 2日(火)
- 7月 1日(土)
- 8月30日(水)
- 10月29日(日)
- 12月28日(木)