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トイレの日

11月10日は「トイレの日」です。
日本トイレ協会」によって制定されました。
日付は、「11(いい)」「10(トイレ)」の
語呂合わせから。
 
 

トイレの日


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「トイレの日」は、「日本トイレ協会」により
昭和61(1986)年に制定されました。
トイレ文化の創出と快適なトイレ環境の創造、
トイレに関する社会的課題の改善に
寄与することを目的に
昭和60(1985)年)5月15日に発足しました。
「トイレシンポジウム」の他、
講演会・講習会の企画・開催、
トイレに関する各種研究会の設置・運営などを
行っています。
  
 

日本のトイレの歴史

日本のトイレは歴史的に見ても
ヨーロッパよりも比較的清潔なものだったと
されています。
川の流れが速い為に分解速度が速く、
また農耕への利用が進んだためです。
 
縄文時代に登場した自然派トイレ
福井県若狭町の縄文時代前期(約5500年前)の「鳥浜貝塚」(とりはまかいづか)では、
古代のトイレ跡と見られる遺構が
発見されています。
 
 
 
「桟橋形水洗式トイレ」と言われる、
川岸に杭を打って板を渡し桟橋を作り、
その桟橋からお尻を出して用を足して
川に流すというもので、自然の浄化作用に
任せるスタイルだったようです。
「桟橋形水洗式トイレ」は、
縄文時代の遺跡などで広く見る事が出来ます。
 
 
古墳時代頃になると、屋内に川の水を
導水したものが使われるようになります。
「川屋」転じて「厠」になったという説も
あります
 
『古事記』に見られるトイレ
現存する日本最古の書物『古事記』に、
神武天皇の条に「その大便(くそ)まみれる溝」と
トイレの記載が見られます。
これは溝を掘って川から水を引き、
排泄物が流れるようにした、
天然の水洗便所のようなものでしょうか。
 
奈良時代の貴族の屋敷には、
絶えず水が流れている道路側溝を
自宅に引き込んで、水流の上で用を足したと
考えられる遺構が見つかっています。
大便はそのまま流れ出ていかないように、
少し先に沈殿させるための穴を設けて、
その上澄み水を元の道路側溝に戻したそうです。
 
平安時代の貴族は「おまる」を使っていた⁉
平城京や平安京といった都市となると、
「川屋式」は難しいため、
貴族達は「樋箱」(ひばこ、しのはこ)と呼ばれる
引き出しの付いた木製の便器を
「おまる」と同じように使って、
部屋の片隅で用を足していました。
上流階級では、
便を箱の中に出すという形式が定着して、
中世には専用の部屋が作られるようになり、
近代まで続きました。
 
 
ところで日本の和式便器は「しゃがみ式」ですが、
他の国の「しゃがみ式」が
単に下に穴が開いているだけなのに対して、
日本だけ「金隠し」があることを
知っていましたか?
「樋箱」の後方には、
T字型あるいは柵状の取っ手が
取りつけられていました。
そして貴族の女性は排便する際に、
十二単を汚さぬように、この取っ手に
長裾をかけて用を足していました。
この「衣かけ」が転じて
「金隠し」になったとされています。
 
 
後年になると、この取っ手は
便器の前後を分別する目印となり、
更に後年、衣服に長裾がなくなると、
前を隠すオブジェに転化したという説が
あります。
また別の説としては、敵が切り込んで来た時
大事なものを守るためだという
「武士起源説」もあります。
 
同じ平安時代でも、高野山や英彦山(ひこさん)
比叡山では「川屋式」のトイレが使われ、
谷川の水を竹筒などで台所や風呂場に配水し、
その余り水を使いトイレの下に流しました。
一方、庶民は道端で済ませていました。
これも中世まで続きました。
 
貯糞汲取り式便所が主流に
鎌倉時代に入り、
幕府が「二毛作」を奨励するようになると、
糞尿は貴重な肥料「下肥」(しもごえ)となり、
「貯糞汲取り式」のトイレが主流となりました。
 
江戸時代になると「汲み取り式」は更に普及し、
人の排泄物がほぼ堆肥として利用されるように
なりました。
 
長屋には共同便所が作られ、
農村から農民が肥(こえ)を買いに訪れたり、
専門の人間が商売を始めるようになります。
こうした再利用の手法から、
江戸時代、人口が拡大した都市部においても
町は清潔に保たれるようになりました。
 
堆肥としての利用は明治時代まで続きますが、
大正時代になると安価な化学肥料が普及し始め、
堆肥としての利用自体が少なくなっていきました。
 
更に戦後は衛生上の問題から
堆肥としての利用が禁止され、
山間部や海への廃棄が問題となりました。
 
洋式トイレの導入
明治時代になると、欧米文化の浸透により、
洋風様式の建築が取り入れられるようになると
そうした建物の中には、腰を掛けるタイプの「洋式トイレ」が設置されたものも現れました。
 
大正3(1914)年には国産の洋式トイレが開発され、
帝国議会議事堂や高級ホテル、富裕層の洋館などに設置されました。
 
ただ当時日本のトイレのほとんどが
「和式トイレ」で、一般家庭や企業、学校などには普及しませんでした。
 
水洗式トイレの導入
明治中期に「水洗式」の便器が
輸入されましたが、普及しませんでした。
水洗トイレが普及するには
下水道や浄化槽の整備が必要ですが、
その整備が本格的にスタートしたのは
関東大震災後のことでした。
 
 
その下水道や浄化槽の整備も
昭和に入ると急速に進み、
昭和30年頃には現在の「水洗トイレ」が登場し、
徐々に一般家庭へと普及するようになりました。
洋式の水洗トイレも、
昭和34(1959)年に日本住宅公団が採用してから、
徐々に一般家庭へ普及していきました。
 
 
昭和55(1980)年には、温水洗浄便座
「ウォッシュレット」が登場。
昭和57(1982)年には、
TOTOの「おしりだって洗ってほしい」の
CMが話題となり、
温水洗浄便座が広まるきっかけとなりました。平成25(2013)には、4世帯のうち3世帯が
温水洗浄便座を保有するところまで普及し、
令和4(2022)年には、温水洗浄便座の
国内累計出荷台数が1億台を達成しました。
 

日本最古のトイレ

「東福寺東司」
紅葉の名所として有名な「東福寺」には、
国の重要文化財にも指定されている
室町時代に建設された
日本最古のトイレがあります。
深さ約30cmの穴のトイレ約20個が2列に並び、
寺の修行僧100人以上が
一斉に駆け込んでいたことから、一般に、
「百雪隠」(ひゃくせっちん)と呼ばれます。
なお正式名称は「東福寺東司」(とうふくじとうす)
と言います。
禅宗では、トイレも大事な修行のひとつで、
入ってから用を足して退出するまで、
一挙手一投足が細かく決まっています。
 
雪隠(せっちん)
便所は「雪隠」(せっちん)と言ったりしますが、
この呼び名の由来にはいくつかあります。
 
1.北宋の禅僧・雪竇禅師せっちょうぜんし(=明覚禅師)が
  浙江省の雪竇山霊隠寺で便所の掃除をする
  「浄頭」を務めたからとする説
 
2.唐代の禅僧・雪峯義存せっぽうぎぞん禅師(=真覚禅師)が
  福建省福州で「浄頭」を務めたからとする
  説。
 
3.霊隠寺というお寺にトイレ掃除が大好きな
  「雪」という和尚の名前の「雪」と
  寺の名前の「隠」をとって
  「雪隠」という言葉が生まれた。
 
4.雪隠寺というお寺の雪宝和尚が
  トイレで悟りを開いたということから。
 
5.トイレの別名に「西浄」というのがあり、
  この読み方の「せいちん」が訛って
  「せっちん」になった。
 
6.Chinaではかつて便所の側に青椿(せいちん)
  植えて覆い隠したことから、
  トイレを青椿と言ったが、
  その「せいちん」が訛って「せっちん」に
  なった。
 
この「雪隠」という言葉が
鎌倉時代に禅僧によりChinaから伝わると、
都でそれが流行語になり、
たちまちのうちに全国に広がりました。
 
因みに、現在Chinaでは便所を雪隠と呼ぶことは
ないそうです。