うまずたゆまず

コツコツと

氷室の節句(ひむろのせっく)

 
冷蔵庫も製氷技術もなかった昔、
人々にとって夏の猛暑を凌ぐのは大変なことでした。
涼しい山影の杉木立に包まれる山中に深い穴を掘って、
底に茅を敷き、その上に冬に降り積もった雪や天然の氷を載せて
上に枯れ草や杉皮などで覆い夏まで貯えておく場所を
「氷室」と言います。
「氷室」は非常に古い時代に考案され、
昭和の初め頃まで日本の各地で伝えられました。
 
 

氷室の歴史

『日本書記』の仁徳天皇御代の記述に
大和の闘鶏(つげ)にあった氷室のことが書かれているのが
記録に現れる最初と言われています。
 
各地の氷室は朝廷で管理することが定められていて、
氷室の番人である氷室守や、氷室の氷を宮中へ運ぶ役職のことなどが
律令で定められていました。
氷室の氷が如何に貴重なものとされたかが推測されます。
 
平安時代の『延喜式』(えんぎしき)には、
毎年4月から9月まで
氷室の氷を天皇、中宮、東宮のもとへ運ぶ重要な務めのことなどが
記されています。
京都市北区西賀茂には氷室町というところがあり、
氷室神社」がありますが、
これが『延喜式』が伝える氷室の一つだと言われています。
 
宮中では毎年、陰暦6月朔日を「氷室の節句」と言って、
氷室の氷を群臣に賜り
「夏越の祓」(なごしのはらい)とする行事がありました。
江戸時代には幕府も「氷室の節句」の行事を受け継ぎ、
氷室の氷の代わりに氷餅や折餠(へぎもち)で祝ったと言います。
 
 

氷の朔日(こおりのついたち)、氷室の日

氷が手に入らない庶民の間でも、
旧暦6月1日を「氷の朔日」と呼んで、
氷の代わりに正月の餅を乾燥させて保存しておいたものを食べる習わしが
全国的にあったと言います。
 
金沢では毎年7月1日を「氷室の日」として、
地元の和菓子屋は「氷室饅頭」を大々的に売り出し、
人々は列をなして買い求めます。
その起源は、加賀藩5代藩主前田綱紀公の時代とされています。
加賀では、藩主が徳川将軍家に献上するため、
天然の氷雪を氷室に貯蔵し、6月の末に江戸に届けていました。
この時期が選ばれたのは、禁中行事にある
「氷室の節句」(旧暦六月一日、新暦の7月1日)に間に合うようにとの
思いからでした。
何ヶ月も氷を貯蔵し、
加賀から江戸へなるべく溶かすことなく運ぶことが出来るようにと、
饅頭を神社に供えて祈願しました。
 
これを再現した催し「氷室開き」が
毎年6月30日に氷室の舞台「湯涌温泉」で行われています。
そして、翌7月1日に「氷室饅頭」を食べました。
「氷室饅頭」の他にも、
(あんず)や枇杷(びわ)を食べる風習も古くは一般的でした。
また、胡瓜や太胡瓜のなます、
そしてちくわを食卓に乗せる家庭も多いようです。
昔は「中風(=脳卒中)が出ないように」と言って
こうした食材を食べたのだそうです。
 

 
 

水無月

 
京都では、陰暦6月晦日の夏越しの祓に「水無月」を食べて
ひと夏を健康に過ごすことを願いました。
「氷室の節句」に「氷餅」を食べたくても、
氷は貴重で、庶民の手に届くものではありませんでした。
代わりに、「白いういろう」を氷のかけらに似せて三角に切って、
小豆あんを載せて食べました。
小豆の赤い色や三角の形には「魔除け」の意味があります。
 
他にも「御所氷室」や「夏越川」など「氷室」に因んだ銘菓があるのは、
「氷室」の所縁を伝えるものです。
 
 

歯固め

 
正月に固いものを食べる慣習を「歯固め」と言いますが、
「氷の朔日」にも、
乾餅や折餅(へぎもち:餅を薄く切って炙ったおせんべい)を
食べる習わしがありました。
固いものを食べて健康を願うものです。
 

f:id:linderabella:20201227114527j:plain