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コツコツと

アイスクリームの日

昭和39(1964)年、
「東京アイスクリーム協会」
アイスクリームのシーズンが始まる
連休明けの5月9日に記念事業を開催し
都内の施設や病院などに
アイスクリームをプレゼントしました。
これを機に、日本アイスクリーム協会は
昭和40(1965)年に制定しました。

日本人とアイスクリームの出会い

日本人とアイスクリームの出会いは、
江戸時代末期の万延元(1860)年こと。
安政5(1858)年に締結した
日米修好通商条約の批准書交換のため、
派遣された「万延元年遣米使節」一行が
日米修好通商条約の書類を交換するため、
訪問先の米国で食べたのが最初で、
その美味しさに驚嘆したと言われています。
 

 
この時の様子を使節団の一員だった
柳川当清(やながわとうせい)が航海日誌
『柳川日記』に次のように綴っています。
「珍しきものあり。
 氷を色々に染め、物の形を作り、是を出す。
 味は至って甘く、口中に入るるに忽ち溶けて、
 誠に美味なり。之をアイスクリンといふ。」
 

横浜でアイスクリーム1号店オープン

明治2(1869)年6月(新暦7月)、
町田房蔵(まちだふさぞう)という人物が
横浜馬車道通りに開いた「氷水屋」で、
日本初となるアイスクリーム(氷菓)を
「あいすくりん」という名称で製造販売を
始めました。

横浜市中区の馬車道の「氷水屋」跡地には
昭和51(1976)年にアイスクリーム記念碑
「太陽の母子」のブロンズ像が設置されて
います。
 
町田房蔵(まちだふさぞう)
町田房蔵は16歳の時に徳川幕府が派遣した
「万延元年遣米使節」の正使一行が乗艦した
ポーハタン号の随伴艦「咸臨丸」の艦長・勝海舟
の従者として米国に渡り、日本人として
初めてアイスクリームを食べたと言われる
一人となりました。
 

 
日本に戻った町田房蔵は明治2(1869)年、
その体験を生かし、馬車道で「氷水店」を開店。
函館から氷を取り寄せ、その氷と塩を使い、
牛乳・卵・砂糖を混ぜ、日本人として初めて
アイスクリーム「あいすくりん」を作り
販売しました。
 
 
「あいすくりん」はとても高価で、お店は赤字。
しかし翌年、伊勢山皇大神宮の大祭で、
茶店を出店して「あいすくりん」を販売した
ところ、予想外の大盛況し、その後横浜には
氷水店(アイスクリーム店)が急増しました。
このようなことから、町田房蔵は
「アイスクリームの父」と呼ばれるように
なりました。
 
日本初のアイスクリーム
「あいすくりん」

 
「あいすくりん」は牛乳・砂糖・卵黄で作られた
シンプルなカスタードアイスだったようです。
そして気になる「あいすくりん」のお値段は
金二分。

当時の女工さんのお給料10日分、
大工さんの日当2日分と、
今の時代では8000円を超えという
大変高価なものでした。
そのため外国人や一部の富裕層にしか売れず、
庶民は物珍しげに眺める人がほとんどだったとか。

 
出島 松造(でじま まつぞう)

町田房蔵は、米国への密航者第1号の
出島松蔵でじままつぞうからアイスクリームの製法を学んだ
という説もあります。
 
静岡県生まれの出島 松造(でじま まつぞう)
16歳の時に横浜に出、米国商人ソーヨの店で
店員として働いていました。
そしてソーヨが帰国する際、
当時は外国渡船厳禁の時代でしたが、
松造は共に米国に渡ることを懇願して
米国帆船に乗り込んで密航を果たしました。
米国ではソーヨの仕事を助ける傍ら、
家畜の飼育法や牛乳の加工法等を学びました。
そして咸臨丸で渡米した福沢諭吉の通訳をし、
諭吉の計らいで帰国しました。
 
帰国の後は東京の農業試験場に勤務。
農業試験場に明治天皇が行幸された際、
茘支れいし(ライチ)とアイスクリーム氷を献上した
と言われています。
 

アイスクリームの日

 
昭和39(1964)年、東京アイスクリーム協会が
馬車道でアイスクリームが製造販売された
5月9日を「アイスクリームの日」と制定。
これを記念して馬車道では、昭和51年から
5月9日の前後3~4日に渡り
アイスクリームの発祥を知ってもらおうと
あいすくりーむ発祥記念「馬車道マルシェ」
というイベントを開催しています。

 

www.bashamichi.or.jp

 
ただ、町田房蔵が店を開いたのが
5月9日というのは俗説です。
これを裏付ける資料は今のところ
確認出来てはいません。