「嘉祥の儀」(かじょうのぎ) は、
旧暦の6月16日に行われていた行事です。
江戸時代の百科事典
『和漢三才図絵』(わかんさんさいずえ) には、
承和15(848)年に、
朝廷に白亀が献上されたことから、
これを瑞祥として、
仁明天皇がこの年を「嘉祥」と改元し、
群臣に16種類の食物を賜ったことに始まった
と言われます。
「嘉祥の儀」が生まれる前夜

第54代・仁明天皇
弘仁元(810)年に嵯峨天皇の第1皇子として
後に第54代・仁明天皇 (にんみょうてんのう) となる
正良親王 (まさらしんのう) が誕生しました。
弘仁14(823)年、嵯峨天皇が譲位して、
嵯峨天皇の弟が淳和天皇として即位すると、
14歳の正良親王は皇太子となりました。
天長10(833)年に24歳で仁明天皇に即位します。そして皇太子には、淳和天皇の第二皇子、
恒貞親王 (つねさだしんのう) が決まりました。
というのも、嵯峨天皇と淳和天皇の間で、
お2人の父親の第50代・桓武天皇の遺志により、
それぞれの家柄から交互に天皇を出すという
約束があったからです。
嵯峨天皇と淳和天皇の関係はとても良好で、
30年近く争いは起きていませんでした。
藤原良房の台頭
藤原良房 (ふじわらのよしふさ) は、
かの栄華を誇った藤原道長が登場する
150年も前に天皇家と親戚関係を築き、
臣下として初めて太政大臣になっただけでなく
皇族以外で初の摂政に就任し、
後の藤原氏による「摂関政治」の
きっかけを作った人物です。
良房は、藤原北家の左大臣・藤原冬嗣の次男で、
父子ともども嵯峨上皇の信任を得て、台頭。
更に妹の藤原順子が仁明天皇の女御となり、
道康親王(後の文徳天皇)を授かると、
道康親王の外叔 (がいしゅく) となったことから、
道康親王の即位を望むようになりました。
嵯峨天皇の皇女・源潔姫との間に生まれた
娘・明子 (あきらけいこ) を文徳天皇に入内。
惟人親王(後の清和天皇)を授かりました。
後に、この惟人親王が史上最年少の9歳で
第56代・清和天皇として即位すると、
藤原良房が摂政として天皇に代わり
朝廷の政務を担うことになりました。
このような道康親王を皇太子に擁立する動きがあることを察せられた恒貞親王と淳和上皇は、
皇太子辞任を何度も申し出しますが、
その都度に嵯峨上皇から慰留されました。
承和の変
ところが承和7(840)年に父の淳和上皇が崩御、
承和9(842)年7月に嵯峨上皇が崩御すると、
僅か2日後、恒貞親王に仕えてきた
伴健岑 (とものこわみね) と橘逸勢らは
謀反を図ったとして捕縛。
拷問により10日程して、伴健岑は隠岐国、
逸勢は非人として伊豆国に遠流とされた他、
90余人が配流となりました。
橘逸勢 (たちばなのはやなり)
奈良朝に権勢を誇った橘諸兄の曽孫。
延暦23(804)年、最澄、空海らとともに
遣唐使の一員として入唐した際に、
「橘秀才」としてその書才を賞められた。
帰朝後は、官人としてよりも、
「三筆」の一人として名を馳せました。
「承和の変」では、罪状を認めず、
拷問を受け、非人として伊豆に入る途中に、
遠江国で無念を残したまま客死した。
嘉祥3(850)に無実として正五位下に復され、
3年後には従四位下を贈位された。
貞観5(863)年の神泉苑での「御霊会」では
6柱の一として祀られた。
また恒貞親王も皇太子の座を剝脱されて、
道康親王が皇太子(後の文徳天皇)となり、
藤原良房は大納言に昇進しました
(「承和の変」)。
皇太子を廃された恒貞親王は
嘉祥2(849)年に出家し、恒寂 (ごうじゃく) と
名乗られました。
平城天皇の第三皇子、高岳親王・真如法親王
から灌頂を受けて大覚寺を開山されました。
元慶8(884)年に第57代・陽成天皇が退位され
皇位継承問題が生じた際に、当時既に60歳になっていた恒寂恒貞親王に還俗して即位する
よう要請されましたが、辞退されました。
嘉祥の儀(かじょうのぎ)
この頃、地震などの災害が頻発し、
都では飢餓、疫病などが蔓延していました。
それを当時の人々は、
無念を残したまま客死した橘逸勢の恨みと
本気で信じていたようです。
また京都西山の南から北にかけて
長さ30丈、幅4丈余りの白い虹が出現したり、
東南の空に彗星が出現するような怪異が
発生したことも橘逸勢の祟りのせいと
されました。
平安時代の史書『続日本後紀』によれば、
承和15(848)年、擬少領 (地方官の候補) であった
膳伴家吉 (かしわでのともの いえよし) が、
寒川(現・大分川)で白亀を捕獲して
大宰府に献上したとあります。
その後、膳伴家吉は正六位上 (しょうろくいのじょう) という位を授けられました。
当時、白亀は吉兆と考えられていたため、
仁明天皇はこれを御神託として、
6月13日に元号を「嘉祥」と改元しました。

併せて6月16日には「1」と「6」の数に因んだ
16種類の神供(餅や菓子等)を献じ、
世の中から疫病を祓い、
健康招福を神仏に祈られました。
そして群臣に十六種類の食物を賜ったそうです
(江戸時代の百科事典『和漢三才図絵』)。
このことが元となり、
「嘉祥の儀」(かじょうのぎ)という儀式が
行われるようになりました。
この年は、台風で淀川が決壊して
人馬も橋も流され、
陸路が寸断されて都が孤立するなど、
天災にも見舞われて大変な年だったようです。
朝廷は市民に塩や米を支給して支援しました。仁明天皇も天下安寧のため相当心を砕いたこと
でしょう。
なお仁明天皇は、嘉祥3(850)年3月19日に
病により、文徳天皇に譲位。
その2日後の同年3月21日に崩御されました。