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御霊会(ごりょうえ)

 
「御霊会」(ごりょうえ) とは、疫病を流行させ、
災害を起こす怨霊を鎮めるための祭りです。
「御霊信仰」(おんりょうしんこう) 発祥の地、
「上御霊神社 (御靈神社)」「下御霊神社」では
5月1日から18日まで行われています。
 
 

御霊会(ごりょうえ)

「御霊会」(ごりょうえ) は、
疫病を流行させ、災害を起こす怨霊を
鎮めるための祭りです。
 
初めての「御霊会」
「御霊会」の初見は清和天皇の時代、
『日本三代実録』(にほんさんだいじつろく)
貞観5(863)年5月20日の条に記されている
宮中の禁苑だった神泉苑 (しんせんえん) における「御霊会」(ごりょうえ) とされています。
貞観5年(863)5月20日、神泉苑において
「御霊会」が行われました。
「金光明経」「般若心経」の読経とともに、
歌舞音曲や民衆参加の踊りなども行われたようです。
〒604-8306
 京都府京都市中京区
 御池通神泉苑町東入る門前町167
 
なおこの時、御霊として祭られたのは、
崇道天皇 (すどうてんのう)=早良親王 (さわらしんのう)
伊豫親王 (桓武天皇皇子)、
藤原夫人 (伊豫親王母・藤原吉子)、
橘逸勢 (たちばなのはやなり)
文室宮田麻呂 (ふんやのみやたまろ) の5人です。
 
上御霊神社
京都では多くの「御霊会」が行われますが、
上御霊神社の祭礼はその発祥地で、
毎年5月1日から18日にかけて
「御霊会」が行われます。
5月1日の「社頭之儀」から始まり、
5日と12日に氏子町の子供達100人以上が担ぐ「こどもみこし」、
17日は「宵宮」で御霊太鼓があり、
18日の「渡御之儀」までが祭礼の期間です。
 
〒602-0896
 京都府京都市上京区
 上御霊前通烏丸東入上御霊竪町495
 
下御霊神社
下御霊神社では、5月1日に「神幸祭」、
5月18日に近い日曜日に「還幸祭」が
執り行われます。
「還幸祭」では、鳳輦 (ほうれん)・剣鉾 (けんぼこ)
神輿 (みこし) などが氏子区域を巡行し、
災いを祓い清め、地域に安泰をもたらします。
 
〒604-0995
京都府京都市中京区寺町通丸太町下る
 
疫神祭・道饗祭
ところで「御霊会」が行われる以前は、
「疫神祭」(えきじんさい) を行っていたようです。
これは悪病の流行を防ぐために、
疫神を祀ってその威を和らげ鎮める祭です。
神祇祭祀では「道饗祭」(みちあえまつり)
言います。
平安時代には、鬼魅 (きみ) が外から
京都に進入するのを避けるために、
京城の四隅の路上で饗応しました。
 
鎮花祭など
これと同じような目的の祭りに、
鎮花祭(ちんかさい) があり、春の花が散る時、
疫神が分散し、病気を流行させるため、
それを鎮めるための神事が執り行われました。

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このような「御霊会」や「鎮魂の祭り」は
後に各地の寺社で同様の行事に
神輿渡御などの行列や
風流・田楽と呼ばれる踊りなども加えられて、
開催されるようになりました。
時期も飢饉や疫病が多発する(怨霊が暴れやすい)
旧暦の5月から8月にかけてに集中して行われ、
霊魂を祭り、芸能で鎮め、海や山や川へ
流すようになりました。
 
3月(新暦4月)の「鎮花祭(やすらい祭)」、
6月(新暦7月)の「祇園御霊会(祇園祭)」、
8月(新暦9月)の「八幡宮の放生会」、
9月(新暦12月) の「春日若宮のおん祭」などがあります。

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御霊信仰(ごりょうしんこう)とは、

「怨霊」となった者の霊を畏怖し、
それを鎮めることで、
祟りを免れようとする信仰のことを
「怨霊信仰」(おんりょうしんこう) と言います。
 
怨霊(おんりょう)とは
「怨霊」は大きく分けて3種類あるとされます。
まず「新魂」などと呼ばれる、
死んで一年も経っていない鎮魂前の霊魂で、
これらは一周忌が済めば生まれ変わり
「怨霊」ではなくなります。
 
ただ何らかの理由で子孫や縁者に
祀ってもらえない霊魂は「餓鬼」と呼ばれ、
「怨霊」のまま彷徨います。
これが第2の「怨霊」とされます。

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3つ目が非業の死を遂げた者の「霊魂」で、
一般的に「怨霊」と呼ばれ恐れられてきました。
古い例から見ていくと、
藤原広嗣、井上内親王、他戸親王、早良親王
などが怨霊になったとされます。
 
六所御霊(ろくしょごりょう)
鎮め、流したくらいでは
収まらないような強大な「怨霊」は
神社に「御霊神」(ごりょうじん) として
祀りました。
 
そんな強大な「怨霊」として有名なのは
先に挙げた神泉苑での「御霊会」で祭られた
五人の御霊、すなわち崇道天皇、伊豫親王、
藤原吉子、橘逸勢、文室宮田麻呂に
藤原広嗣を加えた「六所御霊」(ろくしょごりょう) です。
 
八所御霊(はっしょごりょう)
更に後には、吉備大臣(吉備真備)と
菅原道真と習合した火雷神が加わって
「八所御霊」(はっしょごりょう) となり、
京都の「上御霊」「下御霊」の両社に
御祭神として祀られるに至りました。
この両社は「京都御所」の
産土神 (うぶすながみ) としても重要視されました。
 

御霊神社(ごりょうじんじゃ)

「御霊神社」(ごりょうじんじゃ) とは、
御霊神を鎮めるために祭った神社のことで、
日本各地にもありますが、中でも京都市
上京区の「上御霊神社(御靈神社)」、
中京区の「下御霊神社」は有名です。
 
両社は、延暦13(794)年の平安遷都に際し、
非業の死を遂げた崇道天皇 (早良親王) らの霊を
慰めるための「御霊会」(ごりょうえ) が起源と
言われています。
 
なお「上御霊神社」と「下御霊神社」では、
「八所御霊」と呼ばれる8柱の神様の顔ぶれが
異なります
 
上御霊神社(御靈神社)
上御霊神社の御祭神は、
仁明・清和天皇両朝の御代に、
奈良から
井上内親王 (いのえないしんのう)
他戸親王 (おさべしんのう) の御霊を迎えました。
 
そして貞観5年の「御霊会」で祭られた
6柱の御霊のうち
伊予親王と観察使を除く4柱の御霊神に
吉備聖霊と火雷神の合わせた
8柱の御祭神がお祀りされています。
 
下御霊神社
下御霊神社の御祭神は、
貞観5(863)年の最初の「御霊会」で
お祭りされた6柱の御霊神に
吉備聖霊と火雷神の合わせた
8柱の御祭神がお祀りされています。
 

怨霊から御霊神へ

崇道天皇(早良親王)
延暦4(785)年、桓武天皇の信頼が厚かった
藤原種継を暗殺事件の首謀者だとされた
恒武天皇の皇太弟・早良親王 (さわらしんのう)
皇太子を廃されて、乙訓寺に幽閉されます。
しかし彼は罪を認めず身の潔白を証明するため、
飲食を断ち無実を主張。
淡路への流罪の途中、自らの命を断ちました
(毒殺とも)。
遺体は淡路で葬られました。
 
その後、桓武天皇の夫人・藤原旅子、
母の高野新笠、皇后の藤原乙牟漏が
相次いで死亡し、
皇太子の安殿親王(後の平城天皇)も
病気に罹ったことから占ってみると、
延暦11(792)年6月10日、早良親王の祟りと
出たために、親王への陳謝を行うと同時に、
平安京への遷都も行いましたが、
延暦4-10(785-791)年にかけて大風による水害、旱魃による飢饉、 痘瘡などの疾病の大流行、
延暦7(788)年の霧島山の噴火、
延暦19(800)年の富士山の噴火と続いたため、
同年早良親王に「崇道天皇」(すどうてんのう)
追号し、名誉を回復しました。
 
伊予親王(桓武天皇皇子)
/藤原夫人(伊予親王の母・藤原吉子)
伊予親王は桓武天皇の皇子であり、
藤原吉子はその母でした。
 
桓武天皇薨去の後、
要職を歴任していた伊予親王は、
大同2(807)年10月27日、吉子の兄・藤原雄友が
伊予親王に謀反の疑いがあるの報告を信じた
平城天皇により母子共々大和国川原寺に幽閉。
絶望した母子は飲食を断ち、
親王の地位を廃された翌日、自ら毒を飲んで、
悲劇的な最期を遂げました。
 
大同元(806)年、山城国では暴風による大洪水と
霖雨が続いて凶作となったのに続いて、
翌大同2(807)年には京中に疫病が流行、
大同3(808)年も悪い事が続いたことから、
朝廷は使を遣わして
京都内に放置されていた死骸を埋葬し、
疫病沈静のために諸大寺に大般若経を
奉読させたりしましたが、
幼い時から病弱で、性格も猜疑心が強く、
精神的にも不安定であった平城天皇は、
この怨霊に悩まされ続け、
翌4(809)年には病に臥ったことから
遂には嵯峨天皇に譲位する運びとなりました。
 
上皇となって後、藤原仲成・薬子兄妹の野望に
耳を傾け、いわゆる「薬子の変」が勃発。
温厚な嵯峨天皇もさすがにこれを許さず、
仲成は射殺、薬子は服毒自殺、
平城上皇は失意のうち出家されました。
 
橘大夫(橘 逸勢)
橘 逸勢たちばなのはやなりは左大臣・橘諸兄の曾孫で、
平安前期の下級官人でした。
ただ、嵯峨天皇・空海と共に
「三筆」と呼ばれた能書家であり、
最澄や空海らと遣唐使として入唐した際には
その才は唐人から
「橘秀才」と称賛されました。
 
しかし帰国後、承和9(842)年7月17日、
伴健岑 (とものこわみね) らが謀反を企てたとされる
「承和の変」に連座したとして逮捕され、
拷問を受けた後、配流地の伊豆へ向かう途中の
遠江国で病没するという非業の死を遂げ、
怨霊となりました。
実は。これは藤原良房が計画した
政治的陰謀であったことから後に名誉回復し、
無実として正五位下、後従四位下が
贈られました。
 
なお、承和5(838)年10月14日、
京都・西山の南から北にかけて
長さ30丈、幅4丈余りの白い虹の出現、
同月22~26日にかけて東南の空に彗星の出現は
陰陽師がどちらも「凶非」と判断して、
これを橘逸勢 (たちばなのはやなり) の祟りと
されました。
 
文大夫(文室宮田麻呂 )
文室宮田麻呂ふんやのみやたまろは平安初期の下級官吏。
840年に筑前守となりましたが、
辞めた後も九州に留まり
新羅の張宝高と交易を行なっていました。
承和10年(843)に突然、
謀反を企てていると密告され、
左衛門府に拘禁され、
遂には伊豆へ配流されました。
 
観察使(藤原広嗣)
藤原不比等の4人の息子・藤原四兄弟が急死後、
政権を主導していた橘諸兄は、
遣唐使であった吉備真備や玄昉を重用する一方
藤原式家宇合の長男で、五異七能ありと
称せられるほど非凡な才を持っていた
藤原広嗣を大宰府に左遷しました。
 
これは天皇の近くで祈祷その他に携わっている
玄昉と吉備真備がよからぬことを吹き込んだ
ためだと怒った広嗣は、
「疫病や社会情勢の不安は、
 唐帰りの吉備真備や玄昉を採用したことが、
 天の意思と異なったからだ」という
上奏文を送り挙兵しましたが、
官軍によって鎮圧され、処刑されました。
(藤原広嗣の乱)
 
この乱は、聖武天皇の「恭仁京」「紫香楽宮」への
転居の原因となった他、
折りからの天然痘流行と相俟って、
これは広嗣の祟りであるとされました。
 
また天平18(746)年に死去した玄昉の死に様は、
空に声がしたと思ったら、その身が突然消え、
後日、興福寺唐院に首が落ちてきたというものや
赤い衣を着た者が現れ、玄昉を掴み取って
空に昇り、その身を砕き落としたなど、
尋常ではない話が流れたことから、
玄昉は広嗣の怨霊によって祟り殺されたのだ
という噂が広がりました。
 
そこで吉備真備は、天皇の命を受けて、
広嗣を祠を立て、墓に慰撫に向かった所、
吉備真備は広嗣の広嗣の怨霊に襲われたが、
得意の陰陽術で身を守り、難を逃れたと
言われています。
 
井上内親王/他戸親王
井上内親王 (いのえないしんのう) は、
聖武天皇の第1皇女で、
5歳の時に斎王に選ばれ、11歳で神宮に出仕。
30歳で斎王を交代し、任を解かれ平城京へ戻り
後に白壁王(後の光仁天皇)と妃となり、
他戸親王 (おさかべしんのう) が生まれます。
稱徳天皇崩御後、白壁王の62歳で即位とともに
54歳で立后し、他戸親王11歳も皇太子になりました。
 
しかし突然、宝亀3(722)年、
井上内親王は光仁天皇を呪ったという
大逆容疑をかけられて皇后を廃され、
5月27日にはこれに連座する形で
他戸親王も皇太子を廃されてしまいます。
 
更に翌宝亀4(773)年10月19日には
井上内親王が光仁天皇の同母姉・難波内親王を
呪い殺したという容疑までかけられ、
他戸親王とともに庶人とされて、
大和国宇智郡(現在の奈良県五條市)幽閉。
宝亀6(775)年4月27日、幽閉先で母子同時に死去
藤原百川らに毒殺されたとみられています。
 
一連の事件は山部親王(後の桓武天皇)の
立太子を支持していた藤原式家による
他戸親王追い落としの陰謀であるとの見方が
有力です。
 
そして二人が亡くなって2か月後から
異変が始まります。
天変地異が頻発し、
山部親王の擁立に加担した者達が次々と死に、
光仁天皇、山部親王も病に罹り、
宝亀10(779)年には
周防国で親王の偽者が現れるなど
二人の怨霊は大変な厄災をもたらしました。
 
これらは井上内親王の霊によるものだと考えた
光仁天皇は、井上内親王の墳墓を改葬して
御墓と称し守冢一烟を置きました。
更に翌年には壱志濃王、石川朝臣垣守を遣わし
改葬しています。
 
桓武天皇の世になっても、
井上内親王・他戸親王の影は纏わりついていた
ようです。
延暦元(782)年には、氷川真人川継の謀反発覚、三方王らによる天皇呪詛もあり、
桓武天皇は長岡京に遷都しますが、
ここでも長岡京遷都の主導者である
藤原種継の暗殺事件が起こり、
他戸親王の異母兄である早良親王が捕えられ…。
桓武天皇が井上内親王、他戸親王、
早良親王の崇りと考えたであろうことは
想像に難くありません。
 
没後25年後の延暦19(800)年には、
二人の怨霊、特に龍と化したと言われる
井上皇后の怨霊を非常に恐れた桓武天皇は
井上内親王を皇后に復位し、
「吉野皇太后」を追贈し、
御墓を御陵(宇智陵)としました。