鎌倉時代の13世紀、
後嵯峨天皇がまだ東宮の頃、
6月16日に、
宋の「嘉定通宝」十六文で供物を揃えて
神前に献じられました。
これを吉例とし、皇位継承後も続けられました。

「嘉定通宝」(かじょうつうほう)は、
南宋の嘉定年間(1208-1224)に鋳造発行された
銭貨です。
日本にも大量に移入され、江戸時代初期まで
流通したようです。
「嘉定通宝」の「嘉(か)」「通(つ)」が 「勝つ」に通じることから、
とりわけ武士達の間で好まれた渡来銭でした。

室町時代になると、宮中行事であった
「嘉祥の儀」が武家にも拡がります。
『増補俳諧歳時記栞草』(1851)によると、
柳で出来た小さな弓で的を射る遊び
「楊弓」(ようきゅう) を行って、
負者は「嘉定通宝」を16枚出して
勝者に食べ物を奢る風習があり、
これを「嘉定喰い」と言ったそうです。

戦国時代頃からは、
室町幕府で用いた宋銭「嘉定通宝」の
「嘉通」を「勝つ」と同義とみなして吉祥とし
通宝16枚で食べ物を買い、
6月16日に贈答をするという習慣が生まれた
そうです。
慶長の頃、豊臣秀吉も「嘉祥の祝」を
恒例として行っていたことが
『武徳編年集成・四十四』に記されています。
なお豊臣秀吉が亡くなる2か月前の
慶長3(1598)年6月16に催した
「嘉祥の祝」において、
「秀頼を頼む」と言って
中老・五奉行などに菓子を与えたとあります。
慶長三年六月十六日、
夜ニ入嘉祥ノ祝アリ、
秀吉ハ上段褥ノ上ニ蒲團ヲ布テ著座、
秀頼其傍ニ侍座セラル、
其下段中央ニ、
片木ニ色々ノ菓子ヲ積ンデ並ベ置、
此席ヘハ、中老、五奉行、近習ノミ
出座シテ是ヲ頂戴ス、
其餘毎席如レ是ノ品々ノ菓子積ミ置、
官職ノ高下ニ依テ其席ヲ異ニシ、
皆菓子ヲ得テ退クコト恒例ノ如シ、
秀吉、中老、奉行ニ向テ曰、
吾願フ處ハ、秀頼十五歳ニ及バヾ、
海内ノ政ヲ讓ント欲スルコト日アリ、
渠天下ヲ管領シ、此嘉儀ヲ成スコトヲ見バ
吾本懷タラン、吾命既ニ以竭ントス、
遺恨少ナカラズトテ落涙アリ、
伺候ノ輩涕泣シテ退ク