昭和26(1951)年9月8日、サンフランシスコで
連合国と日本との間に
「対日平和条約」が調印されました。
そして翌年の昭和27(1952)年4月28日、
「対日平和条約」は発効し、
約7年間に及んだ連合国軍による占領が終結し、
停止状態にあった日本の主権が回復しました。
「サンフランシスコ条約」まで
連合軍の日本進駐開始

昭和20(1945)年8月14日、
日本は「ポツダム宣言」を受諾し、
8月27日から連合国軍の日本進駐が開始され、
8月30日、マッカーサー連合国軍最高司令官が
厚木に到着しました。
「降伏文書」調印
9月2日、東京湾上の米国軍艦ミズーリ号で、
日本側を代表して
重光葵外相、梅津美治郎参謀総長以下11名、
連合国を代表して
連合国最高司令官のマッカーサーが
「降伏文書」に署名を行い、
これによって日本の降伏が確定すると同時に、連合国軍による日本占領が正式に決まりました。
「降伏文書」調印とともに
連合国から日本政府に手交された
最初の指令には、
日本軍の戦闘停止と武装解除の手続き、
軍事施設、捕虜・抑留者に関する情報提供、
外地日本軍の降伏相手先など、
軍事事項の細目が規定されていました。
連合国軍による日本占領

GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は
9月から本格的に活動を始め、占領政策に着手。
9月12日、マッカーサーは記者会見で
「日本はこの大戦の結果によって、
四等国に転落した。
再び世界の強国に復活することは
不可能」と発表。
ドイツと同様に日本の脱工業化を図り、
重化学工業などの産業の解体を実施しました。
9月20日、連合国軍最高司令官の要求に
係る事項を実施する際は、
政府の命令をもって行う旨の、いわゆる
「ポツダム緊急勅令」が公布されました。
9月22日、米国が作成した日本占領の方針
『降伏後における米国初期の対日方針』を
米国務省が発表しました。
10月4日、マッカーサーの示唆により、
連合国軍総司令部によって作成された
草案を基に憲法改正の作業が開始され、
昭和21(1946)年11月3日に「日本国憲法」公布、
昭和22(1947)年5月3日に施行されました。
10月4日のGHQ「人権指令」により、
10月10日、政治犯として長く獄中にあった
徳田球一、志賀義雄らが釈放されました。
10月11日、新任挨拶のために総司令部を訪れた
幣原喜重郎首相 (当時) に対して、
マッカーサー連合国軍最高司令官は口頭で
「五大改革指令」を命じました。
1.婦人の解放
昭和20(1945)年12月、
「衆議院議員選挙法改正」で女性に参政権付与
2.労働組合の結成
昭和20~22(1945~47)年「労働三法」制定
3.教育の自由主義化
昭和22(1947)年3月~翌23(1948)年7月、
「教育三法」の制定
4.秘密警察などの廃止
昭和20(1945)年の「治安維持法」及び
「特別高等警察」の廃止
5.経済機構の民主化
昭和20(1945)年11月~26(1951)年7月、
「財閥解体」
昭和20(1945)年12月~翌21(1946)年10月、
「農地改革」
昭和21(1946)年1月1日には、
「新日本建設に関する詔書」が発表され、
いわゆる「人間宣言」がなされ、
国民と共に新しい日本の建設に努力することが
謳われました。
そして5月3日には
「極東国際軍事裁判」が開廷しました。
米国の「対日政策」の転換
ところが昭和22(1947)年頃から
欧州で米ソ二大国の対立が激しくなった他、
アジアでもChina内戦の激化、
翌年には南北朝鮮に分裂国家の成立など、
アジアの共産主義化の動きが見られ始めると、
米国の「対日政策」の転換が始まりました。
昭和23(1948)年10月、国家安全保障会議は
「アメリカの対日政策に関する勧告」を決定。
1.対日講和条約は非懲罰的なものとする
2.講和後の日本の安全保障のために
警察力を増強する(警察予備軍の創設)
3.総司令部の権限を削減し、
日本政府の責任を増大させる
4.対日政策の重点を経済復興に置き、
「非軍事化・民主化」は中止または緩和する
更に、12月19日、米国政府は日本政府に
日本経済の「自立化」と「安定化」のために
「経済九原則」を至上命令として指示しました。
これは、日本の独占資本を対米従属の下で
復活させようとするものでした。
「朝鮮戦争」勃発

昭和25(1950)年6月「朝鮮戦争」が勃発すると、
米国はこの内戦に介入し、
在日米軍を根こそぎ動員すると、
マッカーサーは日本の治安維持と防衛を口実に
「警察予備隊」の創設を指示 (8/10設置)。
7月24日には「レッドパージ」の実施。
日本を「反共の防壁」「極東の工場」として
米国の冷戦体制の中に組み込まれることに
なりました。

更に朝鮮戦争で苦戦を強いられたことから、
日本を米陣営の中の「同盟国」として
再建強化する政策を採り、
「サンフランシスコ講和条約」の
早期講和の方針を固め、
ダレスを国務省顧問として
関係国との交渉に当たらせるとともに、
同年11月には「対日講和七原則」を発表。

そんな中、昭和26(1951)年4月11日、
マッカーサー元帥は、
朝鮮戦争で旧満州空爆を巡り
トルーマン大統領と対立し更迭され、
4月16日に帰国することになりました。
「老兵は死なず。ただ消えゆくのみ。
神が示すところに従い
自己の任務を果たさんと試みた
一人の老兵として。さようなら」

サンフランシスコ平和条約

条約調印
昭和26(1951)年9月8日、
吉田茂首相を始めとする日本全権は、
第2次世界大戦中、日本と戦争状態にあった
連合国48カ国の代表とともに、
「サンフランシスコ平和条約」
(正式名称は、Treaty of Peace with Japan
(日本名 :「日本国との平和条約」) )が
調印されました。

ただChinaは会議に招請されず
インドとビルマ(現ミャンマー) は参加を拒否。
またソ連、チェコスロバキア、ポーランドは
条約に反対して調印しませんでした。
同時に、「日米安全保障条約」も調印。
講和後も米の駐留が続き、
日米関係を固定化させることとなった
「日米安保体制」が成立しました。
条約の内容

条約は前文と本文7章27条から成り、
議定書一つ、宣言二つが付属しています。
領域については、日本は朝鮮の独立を承認し、
台湾、澎湖諸島、南樺太、千島列島、
国際連盟の委任統治下にあった太平洋諸島に
ついての権利・権原・請求権は放棄が
決められました。
ソ連が条約に参加しなかったことから、
日ソ間に領土問題が残されることに。
北緯29度線以南の小笠原諸島と琉球列島は
米国が国連に信託統治を提議するまでの間、
その統治下に置かれるとされました。
小笠原は昭和43(1968)年6月26日に、
また沖縄は昭和47(1972)年5月15日に、
それぞれ米国との協定により
日本復帰が実現しています。
賠償については、日本の賠償義務とともに、
完全な賠償のためには日本の資源が
十分でないことが承認され、
生産賠償・役務賠償によるという原則が
定められた他は、賠償額等の具体的問題は
個別交渉に委ねられました。
この他、在連合国の日本国・国民の資産は
賠償に充てるために処分することが認められ、
非連合国にあるこれら資産は
捕虜とその家族への賠償のために
赤十字国際委員会に引き渡されました。
また、国際連合に協力することが
日本に義務づけられました。
日本の主権回復
昭和27(1952)年4月28日、
「サンフランシスコ平和条約」が発効し、
昭和20(1945)年)9月2日以降、
連合国軍占領下により停止状態にあった
日本の主権が回復しました。
GHQ/SCAPの進駐は終了しましたが、
占領軍の内、米軍は
「(旧) 日米安全保障条約」に基づいて
駐留継続(在日米軍へ衣替え)。
7月26日には「日米合同委員会」において、
占領終了後の基地に関する合意がなりました。
4.28「主権回復の日」
(しゅけんかいふくのひ)

平成25(2013)年、第2次安倍内閣は
日本の主権が回復された記念すべき日である
4月28日を「主権回復の日」に定めました。
そして平成25(2013)年2013年4月28日には、
日本の完全な主権回復と
国際社会復帰60年の節目を記念するための
日本政府主催の記念式典
「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」が
天皇・皇后両陛下 (現 上皇・上皇后両陛下)
御臨席の下、憲政記念館で初めて開催され
ました。
ただそれ以後は、政府主催の式典はなく、
「頑張れ日本!全国行動委員会」による
「主権回復記念日国民集会」のみが
行なわれています。