今から120年前の明治38(1905)年5月27日は、「日露戦争」の「日本海海戦」が始まった日
です。
欧州側からやって来た
ロシアの「バルチック艦隊」は、
明治38(1905)年5月27日から28日にかけて、
待ち構えていた東郷平八郎が率いる日本艦隊と対馬海峡で戦って撃破されました。
この戦いは、今日、「日本海海戦」
(Battle of Tsushima:対馬沖海戦)
と呼ばれています。
日清戦争後
「日清戦争」の後、列強はハゲタカのように
清国飛び掛かりました。
露・独・仏の3国は、「日清戦争」の勝利により、
日本に譲渡された「遼東半島」の領有権放棄を
迫りました(「三国干渉」)が、
ところがその露は一兵も動かさずに
遼東半島の25年租借と
旅順に太平洋艦隊の軍港の建設と要塞の拡張、
長春・旅順間の鉄道敷設権をもぎ取り、
露の南下政策はとうとう朝鮮半島の付け根まで
達しました。
英は日本軍が撤退した後の威海衛の租借、
独は膠州湾の租借、
仏は広州湾の租借と雲南への鉄道敷設と
南部三省の鉱山開発権を取りました。
日露戦争前夜
その朝鮮では、親露派の閔妃一派が台頭し、
露に接近します。
明治28(1895)年10月の「乙未事変」により
閔妃は殺害されますが、
朝鮮政府はますます露に頼るようになり、
朝鮮国内では露が非常に大きな影響力を有するようになりました。
更に露は明治33(1900)年の「義和団事件」を
きっかけに起きた「北清事変」を機会に、
大軍を満州に送り込み鉄道の建設を進め、
事実上、満洲の軍事占領も行います。
このような露の南下政策は、日本の安全保障上、
極めて大きな脅威になると言わざるを得ません。
朝鮮半島にまで侵出すれば、露との戦争は
どうしても避けられないものとなります。
日本は軍備増強を進める一方、
外交では明治35(1902)年に
「日英同盟」を締結し露を牽制します。
これで露は一旦満州から撤退しますが、
明治36(1903)年になると、却って増兵して
韓国北部まで進出しました。
「日露戦争」開戦
明治36(1903)年8月から始まった
「日露交渉」も決裂し、
日本政府は戦争を回避出来ないものと判断。
明治37(1904)年2月4日、御前会議で開戦を決定。
2月6日、露に対し国交断絶を通告。
2月8日、日本海軍は露艦隊を奇襲攻撃し、
「日露戦争」は開始され、
2月10日、日露両国は相互に宣戦布告しました。
旅順陥落
8月10と14日の「黄海海戦」と「蔚山沖海戦」で、
日本の連合艦隊が露艦隊に大打撃を与えた結果、
日本は日本海と黄海における制海権を
ほぼ手中にします。
8月19日からは乃木希典軍司令官の指揮の下、
旅順攻囲戦が開始され、
12月5日、旅順要塞二〇三高地を陥落。
ここからの砲撃で、旅順港内に閉じ籠っていた
露海軍の第一太平洋艦隊を壊滅させ、
「日露戦争」の大きな転換点となりました
日本海海戦
「バルチック艦隊」の出撃

露皇帝・ニコライ二世にとって、
極東の小国・日本との戦いで敗戦を重ねるのは、
認め難い事で、不利な戦況を挽回するため、
明治37(1904)年10月に「第2太平洋艦隊」、
翌年2月15日には「第3太平洋艦隊」を
バルト海のリバウ海軍基地から極東に派遣。
この第2、第3太平洋艦隊の総称が
「バルチック艦隊」です。
日本海軍の対応
一方日本の連合艦隊も佐世保や呉で修理に入り
太平洋へ回航してくる「バルチック艦隊」を
猛訓練を続けながら待ち構えました。
また日露戦争当時は、未だ無線通信の黎明期で
安定した遠距離通信は望めませんでしたが、
日本は三六式無線電信機を開発し、
駆逐艦以上の艦艇全てに装備しました。
そして明治38(1905)年2月21日、
待機海面と定めていた鎮海湾 (ちんかいわん) に
修理を終えた旗艦「三笠」が
東郷平八郎司令長官を乗せて戻って来ました。

そして鎮海湾には「台中丸」という船内に
巨済島松真から海底ケーブルを引き込んだ
特務船を停泊させて、
「三笠」が鎮海湾にある間は、
連合艦隊司令部の通信中継に当たらせました。
奉天会戦

明治38(1905)年3月、「日露戦争」最後の
大規模な陸上戦「奉天会戦」で
日本軍が勝利しました。
翌年からこれを記念して
3月10日が「陸軍記念日」となりました
(昭和20年を最後に廃止)。
ですが日本の陸軍には、退却する露軍を
追撃するだけの余力は残されてはおらず、
戦力の限界を自覚しました。
「ロシア第一革命」の勃発

1905年1月に「血の日曜日」事件を契機に、
「ロシア第一革命」が勃発していた露では、
皇帝・ニコライ二世は
「必ずやバルチック艦隊が、
思い上がった猿どもに鉄槌を下す」と、
強気な姿勢を崩しませんでしたが、
「奉天会戦」の敗退を契機に、
露国内では、打ち続く敗戦が
革命の機運を醸成することを恐れるようになり
講和が日程に上るようになりました。
敵艦隊ラシキ煤煙見ユ

1905年5月14日、「バルチック艦隊」本隊は
ベトナムのヴァン・フォン湾を出港し、
いよいよ北上を開始しました。
日本側は、その後の消息を掴めずにいました。
「バルチック艦隊」は、
津軽海峡か宗谷海峡を通るのか、
それとも対馬海峡から日本海に入るのか。
「バルチック艦隊」の進路予測を誤ると、
連合艦隊敗北、若いては日本敗戦の可能性も
浮上して来ます。
ここで、「バルチック艦隊」随伴の石炭船が
上海に入港したという情報がもたらされます。
石炭船を分離したということから、
連合艦隊の首脳らは距離の長い太平洋コースは
選択しないだろう」と予測し、
対馬海峡付近に留まることを決断します。

運命の明治38(1905)年5月27日午前2時45分、
特務艦隊の仮装巡洋艦「信濃丸」が、
五島列島西方を航行中の「バルチック艦隊」の
病院船「アリヨール」の灯火を発見、
午前4時45分、「敵艦隊ラシキ煤煙見ユ」 と
無線機を用いて発信、転電され、
連合艦隊司令部に刻々と知らされました。
本日天気晴朗ナレドモ波高シ
その発見報告を受け、
東郷平八郎大将率いる連合艦隊は、
「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ
連合艦隊ハ直チニ出動之ヲ撃滅セントス、
本日天気晴朗ナレドモ波高シ」を
大本営宛てに打電し、
主力の第1・第2艦隊は対馬海峡へと出撃します。
日本海海戦に大勝

敵艦を取り逃がさないように
訓練を重ねてきた日本の連合艦隊は、
東郷平八郎大将の合図とともに
「バルチック艦隊」の目前で艦を回頭させる
「東郷ターン」を行い、敵の進路を塞いだ上で
艦首の主砲だけでなく側面の砲、
更には艦尾主砲も十分に活かした砲撃を敢行。
その結果、日本艦隊の圧倒的な勝利となり、
「バルチック艦隊」はほとんどの船が沈められ
ウラジオストクに到着した露艦は、
巡洋艦1隻と駆逐艦2隻のみでした。
この「日本海海戦」を記念して
「海軍記念日」が制定されました
(昭和20年を最後に廃止)。
日露講和条約
この敗戦により露は継戦意欲を失いますが、
皇帝はその威信にかけて、
負けは認めたくはありませんでした。
しかしセオドア・ルーズベルト米大統領からの度重なる講和勧告、
ニコライ二世の従兄、
ヴィルヘルム二世独皇帝による説得、
更には日本軍による樺太全島の占領で、
ようやく講和会議を開催する方向へと
舵を切りました。
そして明治38(1905)年9月5日、
アメリカの港町ポーツマスで
「日露講和条約」が結ばれ、
「日露戦争」は日本の勝利という形で
終結しました。
その結果、日本は露が満州に建設した
東清鉄道南満州支線 (長春-旅順間の約764km)、
その支線を譲渡されることになりました。
日露戦争の意義
「日露戦争」の勝利により、
日本は独立を全うし
国際的地位を高めただけでなく、
西欧列強の東進を
食い止めることにもなりました。
また有色人種として蔑視・抑圧・蹂躙されていた
アジア・アラブやアフリカの民族運動にも
大きな影響を与え、独立意識を高めました。
インドの独立運動家で後に首相となった
当時16歳であったネルーは、
日本の勝利に血が逆流するほど歓喜し、
インド独立のため命を捧げる決意をしたと
自伝で述べている他、次のように
子供に話したと伝えられています。
日本は勝ち、大国の列に加わる望みを遂げた。
アジアの一国である日本の勝利は、
アジア全ての国々に大きな影響を与えた。
私は少年時代、どんなに感激したかを
おまえによく話したものだ。
たくさんのアジアの少年、少女、
そして大人が同じ感激を経験した。
ヨーロッパの一大強国は敗れた。
だとすれば、アジアは昔、
度々そういうことがあったように、今でも
ヨーロッパを打ち破ることもできるはずだ。
中国の革命運動の指導者であり
「建国の父」と仰がれている孫文も、
次のように述べています。
これはアジア人の欧州人に対する
最初の勝利であった。
この日本の勝利は全アジアに影響を及ぼし、
アジアの民族は極めて大きな希望を抱くに至った。