
寒紅(かんべに)/
丑紅(うしべに)
「寒紅」(かんべに) とは、
「寒中」に作られた口紅のことです。
「寒中」に作った「紅」(べに) は、
品質が良いばかりでなく薬効も高く、
更に色が特に鮮明で美しいとされ、
猪口などに塗り付けた「小町紅」(こまちべに) は
「寒」の時期によく売れました。
中でも「寒中の丑の日」に売り出された
「寒紅」(かんべに)は「丑紅」(うしべに)と言い、
「口中の虫を殺す」とか
「唇の荒れに効果がある」と言われて、
江戸時代の女性達は競って
「紅」を買い求めました。
「紅屋」の店先には、
今日うし紅
と書かれた札が出され、
「丑紅」を購入したお客様には、
景品として「丑紅の牛」という
黒か金の牛の置物が配られました。
「丑紅の牛」には、大形・中形・小形の三種、
素焼きの物と着色した物との二種があり、
紅の購入量に応じて異なる人形が配られた
そうです。
購入者はこの牛の置物を持ち帰って、
赤い座布団の上に置いて神棚に供えて拝むと、
その一年は着物に不自由しないという
言い伝えが広まったことから、
更なる人気を集めたようです。
江戸時代になると、庶民も化粧に
親しむようになりました。
経済の発展に伴い豪商が台頭する
元禄期 (1688-1704) には、
商品の流通網が整って、
化粧品が京都や大坂に住む庶民の手にも
届くようになったと考えられています。
更に文化・文政期 (1804-1830) には、
江戸の女性の間に広まって、
化粧は身近な習慣となりました。
当時の化粧は、白粉 (おしろい)、眉墨 (まゆずみ)・
お歯黒 (おはぐろ)、紅 (べに) を使いこなして
化粧法を工夫していました。
なお当時の江戸では、濃い目のメイクよりも
ナチュラルメイクの方が粋とされて、
薄化粧が主流だったようです。
(上方では濃艶なメイクが好まれたようです)
メイク本も出版されていて、中でも、
文化10(1813)年に出版された
『都風俗化粧伝』(みやこふうぞくけわいでん) は
メイク法やスキンケアや、身の身だしなみ、
歩き方や目線をどこに向けるとよいかなどの
立ち居振る舞いについて
絵入りで詳しく解説されていたことから、
女性達のお洒落のバイブルとして愛読され、
ロングセラーとなりました。
「紅」は、唇は素より頬・目元・爪の他、
化粧下地としても用いられていました。
江戸時代には、
「紅」の原料を買い取って精製し、販売する
「紅屋」が続々と誕生しました。
現在、日本に唯一存在する紅屋
「伊勢半(伊勢屋半右衛門)」も
江戸時代後期の文政8(1825)年に、
江戸日本橋で創業しました。
「紅」には、
「細工紅」と「口紅」の2種類あって、
「細工紅」は⽊版画(錦絵)に使⽤する
絵具⽤の「紅」です。
また「紅屋」は、本業の傍ら、
紅染めや江戸紫染めも受け合っていた
ようです。
口紅はとても高価な贅沢品で、
少量は「紅猪口」(べにちょく) と呼ばれるお猪口や
貝などの内側に塗って、
多量は「紅板」(べにいた) と呼ばれる
携帯用の小さな容器などに塗られて
販売されていました。
小町紅(こまちべに)
粋な江戸の女性達の間で憧れの的になったのが
「小町紅」(こまちべに) でした。
京都の紅屋「紅屋平兵衛」が
「小町紅」と名付けたのが最初ですが、
紅屋「伊勢半(伊勢屋半右衛門)」が、
僅か1%しか取れない赤色色素を使って、
京都製にも負けない門外不出の秘伝の製法で
高品質な玉虫色に輝く「紅」を作り出し、
人気を集めました。
紅花から作られた純度の高い良質な「紅」は、
何度も厚く重ねると
光り輝く金色を兼ね備えたような、
美しい緑色の玉虫色に光ります。
「紅」の純度が高いほど
玉虫色に光り輝いて見えます。
「小町紅」は、乾いている時は
玉虫色に輝いて見えますが、
筆に水をつけて溶くと色が赤に変わります。
「紅猪口」(べにちょく) の内側の玉虫色は、
深紅の「紅」を塗って乾燥させたものです。
乾くとなぜ玉虫色になるのかは、今の科学でも
ハッキリ解明が出来ていないそうです。
ここから湿らせた筆や指で少しずつ取って
唇に赤色の紅を注します。
ところがこの紅を何度も厚く、濃く塗り重ねて
下唇を玉虫色に発色させた
「笹紅」(ささべに) が流行しました。
ただ明治に入ると、海外から入ってきた
安価な化学染料に押されて多くの「紅屋」が
廃業してしまいました。
