「たちばなはじめてきばむ」と読みます。
橘の実が黄色く色づく頃です。
「橘」とは、日本に自生する
日本固有の柑橘類「ヤマトタチバナ」のことですが、
古くは柑橘類を総称して「橘」と言っていました。
「橘」は、冬でも青々とした常緑の葉を繁らせ、
黄金に輝く実をつけるところから、
「繁栄」と「長寿」の象徴、
いつも変わらないことから「永遠」の象徴とされ、
平安時代から御神木として宮中などに植えられてきました。
家紋や文化勲章のデザインとしても用いられています。
菓祖「田道間守」(タジマモリ)
- 『日本書紀』:田道間守
- 『古事記』 :多遅摩毛理、多遅麻毛理
田道間守は、「古事記」「日本書紀」に伝わるお菓子の神様です。
生誕地は兵庫県豊岡市とされ、中嶋神社のご祭神として祀られています。
『古事記』や『日本書紀』には、
田道間守が、常世国(とこよのくに=不老不死の理想郷)から
不老不死の力を持つ「非時香実」(ときじくのかくのみ)を
持ち帰ったと伝えられています。
この「非時香実」(ときじくのかくのみ)が「橘」と言われているのです。
遠い昔(西暦60年頃)、
田道間守は第十一代垂仁天皇の命を受け、
遠い海の向こう「常世国」にあるという
「非時香菓」(ときじくのかくのみ)を探す旅に出ました。
「非時香菓」(ときじくのかくのみ)とは一年中実り、
芳香を放つ果実の意味で、今の「橘」と言われています。
当時、日本に「非時香菓」(ときじくのかくのみ)はなく、
食べると歳をとらずに、長生きが出来ると
考えられていました。
田道間守は幾多の困難を乗り越え、十年の歳月をかけて
やっと「非時香菓」(ときじくのかくのみ)を見つけました。
大喜びで「非時香菓」(ときじくのかくのみ)を
持ち帰りましたが、その一年程前に、
既に垂仁天皇は崩御されていました。
田道間守は持ち帰った「非時香菓」(ときじくのかくのみ)の
半分は皇太后に献上し、
垂仁天皇の御陵にもう出て、
帰国の遅れたお詫びと約束を果たしたことを報告し、
もう半分を墓前に捧げて、その場を去らずに、
絶食数日後、殉死したと伝えられています。
「橘」の実は、その後、品種改良されて
「ミカン」として全国の人々が食べられるようになりました。
また、昔は果物は「果子・かし」と呼ばれ、
聖武天皇が
「橘は菓子の長上、人の好むところ」と言われたことからも分かる通り、
橘は果子の最上級品とされていたことから、
田道間守はお菓子の神様(菓祖)として崇敬されています。
豊岡市には、
田道間守を祀った神社「中嶋神社」(なかしまじんじゃ)があります。
第三十三代・推古天皇の御代(七世紀前半)に建てられたとされていて、
ここには、田道間守が持ち帰った橘の実も祀られています。
神社の名前は、「田道間守」のお墓が垂仁天皇陵の濠の中に、
島のように浮かんでいることに由来すると言われています。
室町時代に建立された本殿は
「二間社流造」(にけんしゃながれづくり)という珍しい様式の建物で、
これは、室町時代の典型的な神社建築を伝えるものです。
明治四十五年に国宝に指定され、現在は国の重要文化財となっています。
中嶋神社では、毎年4月に例祭(菓子祭)が行われ、
全国の製菓業者が多数参列して、田道間守に感謝し、
菓子業界の繁栄を祈願しています。

♫ 田道間守
[国民学校芸能科音楽(初等科音楽一)]
1.かおりも高い たちばなを
積んだお船が いま帰る
君の仰せを かしこみて
万里の海を まっしぐら
いま帰る 田道間守 田道間守
2.おわさぬ君の みささぎに
泣いて帰らぬ まごころよ
遠い国から 積んで来た
花たちばなの 香とともに
名はかおる 田道間守 田道間守
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