
菊の花が咲き始める頃となりました。
旧暦9月9日(令和7年10月29日)は、
「重陽の節句」で、菊で長寿を祈願しました。
後鳥羽上皇は、殊の外、菊の花を好み、
自らの印として愛用しました。
後の天皇が慣例として用いたことにより、
「菊紋」はやがて天皇家の家紋になりました。
後鳥羽上皇が「承久の変」に至る際、
士気を鼓舞するために、自ら鍛造し、
茎(なかご)に菊花紋を刻んだとされるもの。
作刀にあたって相鎚を勤めたのが、
諸国から呼び寄せられた各月交替で
作刀を担当する「御番鍛冶」(ごばんかじ)の名工で、
朝廷と深い関係にあった山城・備前・備中の
刀工達ちが主として選ばれました。
江戸時代に「葵紋」が幕府により
禁止される一方で、
「菊紋」の使用は自由とされたため、
店舗の商標や、和菓子の図案、
仏具等の飾り金具などに多用されるなど、
一般庶民に愛されました。
また江戸時代の人々は、春は「花見」に、
秋になれば揃って「菊見」に出掛けました。
「菊づくり」が流行し、
新たに多数の品種が生み出されました。
仕立ての様式や丹精の仕方なども発達し、
「菊花壇」や「菊人形」などが
観賞されるようにもなりました。
新花の品評がしばしば行なわれ、
人々の秋の行楽となりました。
「菊の花」と言うと、
「仏花」のイメージがついて回りますが、
これは西洋の「菊は墓参の花」という習慣が
日本に入ってきたためです。
そのため、病気見舞いに菊の花を贈ることは、
日本でもタブーになりました。

