菊の花が咲き始める頃となりました。
旧暦9月9日(令和4年10月4日)の「重陽の節句」を迎える時期で、
菊で長寿を祈願しました。
「桜」が日本の「春」を代表する花であるのに対し、
「菊」は日本の「秋」を象徴する花です。
後鳥羽上皇は、殊の外、菊の花を好み、
自らの印として愛用しました。
後の天皇が慣例として用いたことにより、
「菊紋」はやがて天皇家の家紋になりました。
後鳥羽上皇が承久の変に至る際、士気を鼓舞するために、
自ら鍛造し、茎(なかご)に菊花紋を刻んだとされるもの。
作刀にあたって相鎚を勤めたのが、
月番を定めて諸国から呼び寄せられた御番鍛冶の名工で、
朝廷と深い関係にあった山城・備前・備中の刀工達ちが
主として選ばれました。
江戸時代、「葵紋」が幕府により禁止される一方で、
「菊紋」の使用は自由とされたため、
店舗の商標や、和菓子の図案、仏具等の飾り金具などに多用されるなど、
一般庶民に愛されました。
また、「菊づくり」が流行し、
新たに多数の品種が生み出されました。
仕立ての様式や丹精の仕方なども発達し、
「菊花壇」や「菊人形」などが観賞されるようにもなりました。
新花の品評がしばしば行なわれ、人々の秋の行楽となりました。
「菊の花」と言うと、
「仏花」のイメージがついて回りますが、
これは西洋の「菊は墓参の花」という習慣が
日本に入ってきたためです。
そのため、病気見舞いに菊の花を贈ることは、
日本でもタブーになりました。