平安時代になると、
「形代」(かたしろ)や「人形」(ひとがた)の
厄払いの意味合いが一歩進んで、
赤ちゃんを「守る」役割を負う、
「天児」(あまがつ)と「這子」(ほうこ)と
呼ばれる人形が登場しました。
乳幼児を守る人形
「天児」と「這子」
平安時代になると、
「天児」(あまがつ)、「這子」(ほうこ)という
乳幼児を守る人形が貴族の間に広まりました。
「天児」(あまがつ)「這子」(ほうこ)は、
それぞれの役割は少し異なりますが、
どちらも「雛祭り」に限らず、
また子供の性別に関係なく、
子供が生まれた時に無事に育つようにとの
願いを込めて贈られる身代わり人形です。
当時は医療が未発達で子供、
特に生まれたばかりの幼児の死亡率が高く、「子供に健やかに成長して欲しい」という
その切実さは現代とは比べ物にならず、
この人形を生まれた子供の枕元に大事に置いて、
三歳を迎えるまで、成長を見守らせました。
「天児」「這子」は
どちらも乳幼児を守る人形でしたが、
後には婚礼調度に加えられたり、
更に時代が下って
「雛祭り」が行われるようになると、
「雛人形」の脇に「天児」「這子」が
添えられたという文献も残っています。
また貴族の間で行なわれていましたが、
江戸時代に一般の人々にも広がりました。
「雛人形」の起源の一つ
現代の雛人形の主流は
お雛様が座っている「座り雛」ですが、
立っているデザインの「立ち雛」も
根強い人気があります。
この立ち雛のデザインの元になっているのが
「天児」(あまがつ)「這子」(ほうこ)とも
言われています。
「天児」を男の子に、「這子」を女の子に
見立てて飾るようになったのが更に、
「天児」が立雛の男雛へ、
「這子」が立雛の女雛へと変化し、
「立雛」の原型となったと言われています。
「天児」「這子」から
「雛人形」へと形を変えつつも、
生まれてきた赤ちゃんが無事に成長して欲しい、
災いが降り掛からず成人して欲しいと願う
親心は昔も今も変わりありません。
因みに、「人形」が「ひとがた」から
「にんぎょう」と呼ばれるようになったのは、
中世の頃からと言われています。
天児(あまがつ)
「天児」(あまがつ)は、
丸い竹や木の棒をT字に組み合わせ、
そのてっぺんに白い絹を丸めて頭を作り、
目、鼻、口と髪の毛が描いて作った
簡単な人形で、
子供の病気や災厄を代わりに受けてくれる
「お守り」のような役割を担いました。
当初は衣装はありませんでしたが、
次第に赤ちゃんの産着のような着物を着せる
ようになりました。
『源氏物語』54帖の19巻「薄雲」には、
正妻格の紫の上が
明石の君から引き取った姫君のために、
厄除けの「天児」を作った場面があります。
這子(ほうこ)
「這子」(ほうこ)は、白い絹の中に綿を詰めた
顔の書かれていない簡単な人形で、
神聖な「お守り」として、枕元に置かれました。
また乳幼児が健やかに成長し、
早く這い這いするようにとの願いが込めて、
「はいはい人形」とか「はいこ人形」と
呼ばれました。
「這子」はうつ伏せにすると、
子供が這い這いするような形をしていました。
江戸時代に入ると、「這子」(ほうこ)は
一般庶民の間にも広まり、
赤ちゃんのお守りとして
枕元に置かれるようになります。
「這子」をお守りとする考え方は
随分長く続いた他、
「這子」の感触が柔らかいため、
次第に手遊び人形、
いわゆる現代のぬいぐるみと同じようにして
遊ばれるようにもなりました。
昭和に入っても、
お祖母ちゃんやお母さんが縫った
「ほうこ」を幼い女の子におんぶさせて
遊ばせる風習がありました。
各地の郷土玩具に
民間にも普及した「這子」(ほうこ)は、
呼び方は様々に変えられて
各地の郷土玩具として残りました。
その代表格が、
「庚申信仰」と結びついて生まれた縁起物の
「括り猿」(くくりざる)や
飛騨高山地域の赤い布が特徴の「さるぼぼ」
です。
「さるぼぼ」
魔除けの色とされる赤い布で作られ、
赤い顔が猿の赤ん坊に似ていることから、飛騨の言葉で「猿の赤ん坊」という意味の
「さるぼぼ」と呼ばれるようになりました。
猿は音読みで「エン」と読むため、
「縁」とかけて「良縁」「家庭円満」、
また訓読みで「さる」と読むため、
「去る」とかけ「病が去る」「災いが去る」
というふたつの意味をかけています。
「吊るし雛」に
最近、初節句の雛人形の脇飾りとして
人気のあるほとんどの「つるし雛」の中に、
縮緬で作られた「這子」が飾られていることが
多くあります。
「天児」と「這子」の違い
「天児」(あまがつ)と「這子」(ほうこ)とは、
同じような目的で使われましたが、
その形に大きな違いがあり、
布で作られた「這子」(ほうこ)に対して、
「天児」(あまがつ)は
十文字形に作った木の棒の上部に、
布で丸く仕立てた顔を取り付けたものです。
着物を着せた「天児」もありました。
近世では、大きく分けて
「天児」は京都の貴族階級を中心に飾られ、
「這子」は、庶民を中心に飾られたようです。
伝統的な特色ある姿かたちを変えなかった
「天児」に対して、
幼児の這い這いする姿に由来する「這子」は
手遊び人形や様々な郷土玩具などに
姿を変えていきました。