うまずたゆまず

コツコツと

花見に関連する語

 
桜がほら咲きの頃から、
満開時を経て、落花の頃までの
短い期間の桜の花を大いに楽しむことを
花見(はなみ)と言います。
「観桜」(かんおう)とも言います。
 
 
桜花を訪ねて山野を逍遥し、
桜の美しさを観賞することは、
「桜狩」(さくらがり)と言います。
「狩」は、山野を訪ね求めるという意味です。
そもそもは花の生命力を身につける
呪術的要素もあったとされます。
 
 
花の名所に出向き、花を愛でながら催す
酒宴のことを「花の宴」(はなのえん)と言います。
特に桜花を愛でる宮廷行事としての宴を言い、
弘仁3(812)年2月に、嵯峨天皇が神泉苑に行幸し、花を見て文人に詩を作らせたのが
宮廷行事としての「花宴の節」(かえんのせち)
始まりと言われています。
桜の花が咲く頃に「賀の祝い」(長寿の祝い)を
行なうことを「花の賀」(はなのが)と言います。
 
 
「花の宴」では、舞い散る花の下に
「花筵」(はなむしろ)を敷いて
飲食を共にしながら桜の美しさを称します。
 
ところで、花見客のことを
「花人」(はなびと)とか「桜人」(さくらびと)
などとも言います。
 
そんな中、花の美しさに心惹かれて枝を折って
盗んだ人のことを「花盗人」(はなぬすびと)
言います。
花を盗む行為は他の盗みとは違い、諧謔的・
好意的に用いられることの多い語と言われ、
狂言『花盗人』では、捕らえられた花盗人
Chinaの故事や日本の古歌などを引いて弁解し、許されるという筋のものですが、
現在では勿論、桜の木を折って盗んでは
いけません。
 
公園や名所には、「花守」(はなもり)という
四季を通して、花の世話をし、桜を守り育て、
見張りをする花の番人がいます。
花の咲いている木の持ち主、または
桜の花の咲く家の主のことは、
花の主(ぬし・あるじ)」と言います。
 
その年の春、初めて咲いた桜の花を
待ちに待った花と巡り合えた喜びを込めて、
「初花」(はつはな)「初桜」(はつざくら)
言います。
 
 
水辺に咲く桜が、川や湖の水面に移る様子は
「桜影」(さくらかげ)と言います。
 
 
 
桜の花が満開になり、見事に咲き乱れている
様子は「桜花爛漫」(おうからんまん)と言います。
桜の花が満開になって、散りこぼれる様子を
「零れ桜」(こぼれざくら)と言います。
 
桜の花が一面に咲いている様は、
雲にたとえて「花の雲」(はなのくも)
「桜雲」(おううん)と言います。
 
   
遠くに咲く桜の花が、
霞のように白っぽく見える様子のことを
「花霞」(はながすみ)と言います。
日本有数の桜名所である吉野山では
見事な「花霞」が広がっています。
 
満開の桜は、夜の闇の中でも、その花の白さで
木の周りがほんのりと明るく感じられます。
これを「花あかり」と言います。
春の夜空の下、暗闇に浮かぶ「花あかり」は、
何とも言えず幻想的です。
 
 
その後、桜の花びらは散り始めます。
風により飛び散る桜の花びらを「飛花」(ひか)
吹雪のように舞うことを「花吹雪」(はなふぶき)
「桜吹雪」(さくらふぶき)と言います。
桜の花の最も美しい景色と言えるでしょう。
 
 
桜の花が散り始めると、
道の傍らに、庭の芝生の上に、
あるいは開いた窓から家の中にも、
花びらが舞い散ります。
散り果てて塵になってしまった桜の花びらを「花の塵」(はなのちり)と言います。
塵となって再び土や水に還ってゆく、
桜の輪廻の一コマです。
 
水面に散った桜の花びらが寄り合って
流れてゆく様を筏と見立てて
「花筏」(はないかだ)と言います。
なお「ハナイカダ」という名の
ミズキ科の植物があります。
この「花筏」となって吹き寄せられた
桜の花びらが流れ着く先にあるのが
「花の浮き橋」です。
水一面に敷き詰められた花びらの様子を
浮き橋に見立てて表した言葉です。
 
こうして様々に移りゆく
桜の花の美しさに酔いしれた心の高揚や
花の荘厳な佇まいに圧倒された思いから
我が家に辿り着いた頃には
すっかりくたびれてしまいます。
また「お花見」の頃は、
昼間は暑く夕方は冷えたり、
時には思いがけなくうすら寒い
「花冷え」の日もあります。
また人出の多さ、
花を見て歩き過ぎたこともあって、
お花見に出掛けた後、
とても疲れることがあります。
「花疲れ」と言います。
 

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