1月23日は「八甲田山の日」です。
1月23日は、明治35(1902)年1月に起きた
近代の登山史における
世界最大級の山岳遭難事故
「八甲田雪中行軍遭難事件」の
(はっこうだせっちゅうこうぐんそうなんじけん)
遭難初日の日付です。
日清戦争後、日本陸軍にとって
来るロシアとの戦いに備え、
冬季訓練は喫緊の課題でした。
そのため青森歩兵第5連隊210名は
1月23日より1泊2日の予定で、
弘前歩兵第31連隊37名は
1月20日より11泊12日の予定で、
それぞれ異なる経路での雪中行軍が
計画されました。
青森歩兵第5連隊は、
ロシア海軍の艦隊が津軽海峡に入り、
青森の海岸沿いの列車が不通となった際に、
物資の運搬を「人力ソリ」で代替可能か
調査することが主な目的でした。
210名の大編成で、
1日分の食糧(米・豆・餅・缶詰・漬物・清酒)、
燃料(薪・木炭)、大釜と工具など合計約1.2tを
ソリ14台を4人以上で曳くことに加えて、
各自、行李に詰めた昼食用の弁当1食分、
道明寺粉1日分、餅2個の携行、
懐炉の使用が推奨されました。
1月18日の予行演習が、
好天に恵まれて成功したことを受けて、
1月23日午前6時55分、穏やかな天候の下、
歩兵第五連隊210名は
八甲田山の田代温泉(田代元湯:現在廃業)に向け、
青森市にあった青森連隊駐屯地を出発しました。
田茂木野では、地元村民が行軍の中止を進言。
どうしても行くならと案内役を申し出るものの、
これを断って、地図とコンパスのみで
厳寒期の八甲田山踏破を行うことになりました。
しかし天候は次第に悪化。
ソリ隊が遅れ始めたため大休止を取り、
昼食としたものの、
携帯した食料類は凍りついてしまい、
食事を摂れない兵士が大多数を占める事態と
なりました。
装備の不安と天候の更なる悪化することを恐れ、
駐屯地への一時帰営を協議したものの
下士官などの反対により、行軍を続行。
先の見えない雪景色の中を進みました。
更に積雪量が増し、ソリによる運搬を断念。
積み荷は隊員が分担して持ち出発するものの、
日没と猛吹雪により
進路も発見出来なくなったため、
雪濠を掘って露営することになりました。
強行軍が災いし、寒さと疲労を訴える者が続出。
暖を取ろうにも炭火などの燃料が用を成さず、
炊事作業も極めて難航。
1月24日午前2時頃、行軍指導部は
「行軍の目的は達成された」として帰営を決定、
午前2時半に露営地を出発しました。
しかし行軍を中止し引き返すも、既に手遅れで、
風速29m/s前後、気温零下20~25℃以下
(体感温度は零下50℃近く)、
渓谷の深い場所で積雪6~9mという悪条件の下、
コンパスは凍り付いて役に立たず、
ほとんど不眠不休で絶食状態であったため、
多数の将兵が昏倒・凍死者が続出。
指揮官の「天は我々を見放した」
この一言により箍(たが)が外れ、
発狂者が出たり、隊の統制が取れなくなり、
完全に部隊はバラバラになってしまいました。
一方青森屯営地では、1月26日からは
救援隊による捜索活動が開始。
1月27日、仮死状態となっていた
後藤房之助伍長を発見したことから、
遭難の詳細が判明し、
2月2日に最後の生存者を発見。
訓練への参加者210名中、
最終的な生存者は11名のみ。
更に3名を除いては、凍傷により
足や手の切断を余儀なくされました。
199名が死亡(うち6名は救出後死亡)し、
5月28日までに全遺体が収容されました。
一方、弘前歩兵第31連隊38名も、
激しい風雪に悩まされましたが、
ほぼ全行程で案内人を立てたおかげで
見事に踏破を果たしました。
なお、遭難の具体的な内容は報告書
『遭難始末』で知ることが出来ます。
この死の行軍は、昭和46(1971)年には
新田次郎『八甲田山死の彷徨』が刊行され、
昭和52(1977)年)にはこの小説を原作として
『八甲田山』のタイトルで映画化もされました。
なおこの事件から122年経った今なお、
八甲田山には迷える彼らの行軍の足音が
聞こえると言われています。
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