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雛市(ひないち)

 
江戸時代、春の「雛祭り」を前に、
2月末から3月2日まで
「雛市」(ひないち)が立って、
大変な賑わいを見せていました。
「雛人形」は最初は「京製」が主でしたが、
明和年間には、「江戸製」が出現します。
そうすると江戸市内には、
雛人形や調度品などを売る「雛市」が
立つようになりました。
 
 
喜多川守貞(きたがわもりさだ)
『守貞漫稿』(もりさだまんこう)には、
「平日他業の家をも、雛商人これを借り、
 また中店(なかだな)と号して、
 大路の中央に往来を残し、
 両側ともに仮店を列す」と、
往時の雛市の隆盛振りが記されています。
 
こういった「雛市」は、
尾張町(現・京橋)、浅草、池之端、
麹町、駒込などもありましたが、
「十軒店」(じっけんだな) には及ばなかったと
『江戸名所図会』には書かれています。
 
 
「十軒店」(じっけんだな)
現在の中央区日本橋室町三丁目付近、
『COREDO 室町テラス』の交差点辺りに
あった地名です。
地名の由来は、10軒立ち並んでいたためと
言われています。
 五代将軍綱吉が、
 京都の雛人形師10人を招いて
 ここにお長屋10軒を与えたからとか、
 「十軒が十軒ながら公卿の宿」と
 うたわれたことから、
 この名がついたとも言われています。
 
なお「十軒店」では、
5月の「端午の節句」前の4月25日からは
「兜市」では兜人形・菖蒲刀・鯉幟を、
12月の「歳暮市」では
破魔弓・手毬・羽子板を扱ったようですが、「雛市」ほど盛んではありませんでした。
また平素は青物の市が立っていたようです。
 
 
「寛永江戸図」(寛永19-20/1642-43)などには
「十軒店」という記載があることから、
この頃から既に有名だったようです。
寛政(1789-1801)には41軒を数えたそうです。
 
 
瓦屋根の立派な店では、
かなり立派な新品の雛人形を取り扱いました。
 
江戸時代初期は「内裏雛」一対だったものも、
中期には雛壇に多くの道具や人形を飾る
「段飾り」が生まれ、
金襴や錦で作った衣装を着せた人形が
登場するなど、
雛人形は絢爛豪華で大型化していきました。
それを見兼ねた幕府が「奢侈禁止令」を
出すほどでした。
 
 
勿論、このような高級雛人形は
一般庶民が買えるような代物ではありません。
庶民は、もっと小さくて素朴な雛人形や、
折り紙で作った紙人形などで楽みました。
十軒店には、庶民対象のお店も数多くあり、
「雛市」の期間だけ、「中店」(なかだな) という
よしず屋根の仮の小屋が設営されて、
廉価な雛人形や中古品、雛の道具などが
売られていました。
 
「十軒店」という町名は
大正時代まで残っていましたが、
関東大震災後の帝都復興計画の一環により
昭和7(1932)年に室町三丁目に編入となり
消滅しました。

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その後、明治30(1900)年代頃から
やがて都市ではデパートでの販売が
始まったこともあって、
「雛市」はなくなりましたが、
老舗の人形店のあった浅草茅町周辺では
人形専門店が集まることとなり、
人形の街「浅草橋」が誕生しました。
現在でも浅草橋・柳橋の江戸通り沿いには
10軒程の人形専門店が軒を連ねています。

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