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梅花祭(ばいかさい)


菅原道真公をご祭神として祀っている
京都の「北野天満宮」は、全国約1万2000社の
天満宮・天神社の総本山です。
 
そんな「北野天満宮」では、900年以上も前から
御祭神・菅原道真公の命日に当たる2月25日に
例祭「梅花祭」(ばいかさい)を開催しています。
御神前には、道真公が梅を愛したことから、
梅花を添えた「御神饌」や「御供」を供え、
厄を祓う祭典が斎行されます。
 
京都の梅の見頃は、
例年2月上旬頃から3月下旬頃です。
気象庁では「白梅」を標準木として、
開花予測を行っています。
梅の場合は、標準木に5~6輪の花が咲くと
開花になるそうです。
 

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本殿の前には、御神木の
「紅和魂梅」(べにわこんばい)があります。
 
 
大宰府に左遷された菅原道真公を慕って、
京都から九州にまで飛んで行った
「飛梅伝説の梅」と同じ種として
伝えられているものです。
樹齢は約300年で、3月中旬頃に
可憐な薄紅色の花を咲かせます。
 
 
「梅花祭」では、大小2つの台に
飯を山のように盛った「大飯おおばん」「小飯こばん」と、
男女の厄年に因んで
白梅の小枝を42本、紅梅の小枝を33本挿した
紙立こうだて」という特別な神饌が神前に供えられます。
 
「紙立・香立」(こうだて)
厚手の強い和紙「仙花紙」(せんかし)を筒状に丸め、
その先端に素焼きの土器(かわらけ)を置いて玄米を入れ、そこに梅の枝を挿したもの。
 
この「大飯」「小飯」は、梅花祭の後、
参拝者に小さく分けて与えられます。
「香立」に使った玄米も、
授与所で「厄除玄米」として
100円で授かることが出来ます。
 
 
現在は「梅花祭」となっていますが、
元々は旧暦2月に菜の花を供える
「菜種御供」(なたねごく)が行われていました。
今でも「梅花祭」を行う神官は、その名残りで、
冠に菜の花をつけています。
 
 
ところで、なぜ菜の花なのでしょう。
これは「菜種」(なたね)が「宥め」(なだめ)
通じることからと言われています。
江戸の頃から参拝客が天神様の命日に、
御心を慰めようと、道に咲く菜花を摘んでは
神前にお供えしました。
明治以後、「梅花祭」に改められました。
 
 

北野天満宮梅花祭野点大茶湯

 
「梅花祭」の日には同時に、
三光門(さんこうもん)前広場で、
花街・上七軒(かみしちけん)
芸妓さん・舞妓さんなどの奉仕によって
「梅花祭野点大茶湯」
(ばいかさいのだておおちゃのゆ)が行われます。
 
 
これは天正15(1587)年に関白・豊臣秀吉が行った
「北野大茶湯(北野大茶会)」に因んだもので、
祭神・菅原道真公の没後1050年の
「大萬燈祭」(だいまんとうさい)に当たる
昭和27(1952)年)から始まった行事です。
 
「萬燈祭」とは
道真公が没後50年毎に「大萬燈祭」、その間の
25年毎に「半萬燈祭」と称する最も重要な祭典を斎行し、またこの大祭に合わせて御社殿の大規模な修造並びに境内維持整備も同時に行いました。
現在の御本殿は、慶長12年(1607)年に豊臣秀頼が
造営したものです。
 
  
 
天正15(1587)10月1日、「北野天満宮」境内で、
豊臣秀吉は「九州平定」と「聚楽第の竣工」を
祝って大茶会を催しました。
身分を問わない無礼講の茶会で、
1500軒以上の数寄屋や茶屋が並び、
1000人以上の参会者で賑わったと言います。
 
 
その中の一軒が、「北野天満宮」で評判の
餅屋「長五郎」でした。
秀吉に薄い餅皮にあんを包んだ餅を
献上したところ、大変気に入られ、
「以後、『長五郎餅』と名乗るべし」と
言われたと言います。
この「長五郎餅」が今も北野天満宮を出て
南東へ徒歩5分程度のところに店を構えている
長五郎餅本舗」です。

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また境内には、秀吉が収集した
名物(茶道具)の数々が披露され、
秀吉自慢の「黄金の茶室」も用意されました。
更に特設された4つの茶席では、
秀吉も千利休、津田宗及、今井宗休らとともに
参会者に茶を点てたと言います。
 
 
北野天満宮」は、文安元(1444)年の
「文安の麹騒動」(ぶんあんのこうじそうどう)
室町幕府の攻撃によって焼失して
一時衰退していました。
 
そこで豊臣秀吉は大茶会をするなどを催して
北野天満宮」に寄進し、復興に努めました。
その遺子である秀頼も多くの寄進をし、
拝殿の高欄擬宝珠には秀頼の銘が刻まれて
います。
 
「上七軒」(かみしちけん)[PDF] は、
室町時代の文安元(1444)年に
北野天満宮」が再建された際に、
残った資材を使って天満宮の東門前の松原に
7軒の茶店が建てられたのが起源の
京都最古の花街です。