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涅槃会(ねはんえ)

 
「涅槃会」(ねはんえ)とは、
釈迦の入滅の日とされる旧暦2月15日に
その遺徳親善のために営まれる法要のことで、
「花まつり」や「成道会」と並ぶ、
仏教の三大行事「三仏忌」(さんぶっき)
ひとつです。
現在は、新暦2月15日か月遅れの3月15日に
行われるところが多いです。
 
 

涅槃会(ねはんえ)とは

 
「涅槃会」(ねはんえ)とは、
お釈迦様が80歳で入滅(にゅうめつ)した
旧暦2月15日に行われる法要です。
 
この日は「涅槃図」(ねはんず)をかけて、
「仏遺教経」(ぶつゆいきょうぎょう)などを唱え、
そのご遺徳を偲ぶ法要が行われます。
「仏遺教経」(ぶつゆいきょうぎょう)とは、
正式には「仏垂般涅槃略説教戒経」
(ぶっしはつねはんりゃくせっきょうかいきょう)といい、
お釈迦様が涅槃に入る前に最期に説かれた教えを記された経典とされています。
涅槃に至るために守るべき八種の徳目
「八大人覚」(はちだいにんがく)が記されています。
具体的には「少欲・知足・遠離・精進・不忘念・
禅定・智慧・不戯論」からなっています。
この八つによって、悟りの境地に辿り着けると
いうものです。
 
 
普段、非公開の「涅槃図」が掲示されるため、
素晴らしい仏教芸術が見られる大きな機会です。
「絵解き」と呼ばれる
涅槃図の説明が聞ける場合もあります。
 
なお、「涅槃会」は誰でも参拝が可能で、
甘酒やお団子が振る舞われるところも
あります。

 
 

涅槃図(ねはんず)

 
お釈迦様が8本の「沙羅双樹」(さらそうじゅ)の木々の元に横たわり
その周囲を弟子達や天女の他、信者や、
子丑寅卯など十二支の動物や
昆虫達までもが集まって、
悲しむ最後の様子を描いたものです。
生きとし生きるもの全てに慈しみを施した
釈迦の徳を象徴的に表しています。
 
 
お釈迦様が亡くなると、
沙羅双樹の花が
季節外れの白い花を一斉に咲かせ、
すぐに花を散らして
釈迦の遺体を覆ったと言います。
中央の宝台(ほうだい)の上に
釈迦が頭を北にして横たわっています。
これが死者を北枕に安置する由来と
言われています。
また、右脇を下にして、
顔は阿弥陀如来のいる
西方極楽浄土を向いていると言われています。
 
釈迦の母・摩耶夫人(まやぶにん)
病床の我が子を助けるために
天から投げた薬袋が
沙羅双樹の木に引っ掛かって
釈迦の元に届きません。
誰であっても
死を逃れることは出来ないということを
意味しています。
 

 

涅槃会の時期

お釈迦様は80歳を迎えた頃に、
自分の最期が近いことを知り、
3カ月後の入滅を弟子たちに告げて、
終焉の地・クシナガラで
涅槃(肉体を捨てた悟りの境地のこと)を
迎えました。
涅槃の時には、集まった弟子達に
「物事は移り変わっていく、
 怠ることなく日々精進しなさい」
との言葉を残し、
80年の生涯を終えたとされています。
紀元前383年のことと言われていますが、
実際にお釈迦様が入滅された日は
はっきりとしていません。
 

 
南伝仏教では、お釈迦様は
ヴァイシャーカ月の満月の夜に
亡くなられたとされ、
南方の国々では、5月の満月の日が
「涅槃会」を実施する日になっています。
 
インドの暦によれば、ヴァイシャーカ月は
第2の月という意味があり、
Chinaには2月が亡くなった月と
伝えられたようです。
そのためChinaでは、
「涅槃会」は2月15日に実施されてました。
その影響を受けて、日本でも2月15日に
「涅槃会」を行うに至ったとされています。
但し、旧暦の2月は現在の3月に当たるため、
寺院によっては旧暦を取り入れて、
3月15日に涅槃会を行うところもあります。
なお日本では、「涅槃会」は
飛鳥時代に奈良の興福寺で始まったと
言われています。
 

西行忌

願わくは花の下にて春死なん
その如月の望月の頃
 
この歌の作者は「西行」(さいぎょう)です。
俗名を佐藤義清(さとうのりきよ)といい、
鳥羽上皇にも仕えた北面の武士として仕え、
武芸・和歌ともに優れていましたが、
23歳の時に妻子を捨てて出家して
「円位」(えんい)と名乗り、
後に「西行」(さいぎょう)と称しました。
 
自然を愛し、特に月と花を愛に関する歌を
多く詠んだことから、
月と花の歌人とも言われた西行は、
晩年を伊勢で過ごした後、
東大寺再建のために奔走し、
文治6(1190)年、歌で詠んだ願い通りに、
釈迦が亡くなったとされる2月15日の翌16日に
河内国の物静かな山里の弘川寺(ひろかわでら)で、
73歳の生涯を閉じました。