うまずたゆまず

コツコツと

火廼要慎(ひのようじん)

 
京都では、家庭の台所から料亭の厨房まで、
火のあるところには必ずといっていいほど
「火廼要慎」(ひのようじん)と書かれた
京都・愛宕神社のお札が貼ってあります。
 

京都「愛宕神社

京都市北西部にある
標高924mの霊峰・愛宕山の山上に鎮座する
愛宕神社(あたごじんじゃ)は、
全国に約900社ある愛宕神社の総本山です。
地元では「愛宕さん」と愛称で呼ばれています。
 
 
愛宕神社が創建されたのは
1300年以上前の大宝年間(701~704年)で、
修験道の開祖であるとされる役行者と
白山の開祖・泰澄(たいちょう)によって、
開かれたとの伝承を持つ霊仙です。
 

 
「火伏せの神」を祭神として、
伊邪那美命(いざなみのみこと)
火之迦具土神(ひのかぐつちのみこと)を祀るため、
火伏せ、防火の信仰に厚い。
京都は江戸時代に何度も大火に見舞われたため、
近世になってから、火伏せを祈願する
「愛宕信仰」が町民に広がりました。 
 
信心深いことのたとえとして、
「伊勢に七旅熊野に三度、愛宕山へは月参り」という言葉があります。
ただ参拝するためには、
片道約2時間、約4㎞の登山道 (表参道) を登って
お参りしなければなりません。
それでも「阿多古祀符あたごきふ 火廼要慎ひのようじん」と記された
火伏せの護符と、
愛宕の神花である「樒」(しきみ) を持ち帰って
火災から免れることを願ってきました。
「子供を3歳になるまでに連れてお参りすれば、
 その子は一生火事に遭わない」
と言われることから、参詣道では、
子を背負って登る親の姿をよく見掛けます。
 
「愛宕」の本地仏である
「『勝軍地蔵』を尊崇する者は戦で勝利を得る」
と言われたことから、特に戦国武将達に
勝利の神として信仰が広まりました。
 
明智光秀が「本能寺の変」の直前に参拝し、
「愛宕百韻」(あたごひゃくいん)を詠んだことでも
有名な場所です。
 
愛宕百韻(あたごひゃくいん)
天正10(1582)年5月24日(あるいは28日)に、
本能寺の変の直前に愛宕山で明智光秀が張行した
連歌『賦何人百韻』 (ふなにひとひゃくいん) の通称。
光秀が詠んだ発句「時は今 天が下しる 五月哉」が有名。
明智家は元来、土岐氏の末裔であり、
その土岐が 「あめ」 と 「天」 をかけて 「下なる」 、
つまり「天下」を取る時期が来たと解釈出来ます。
 
また関ヶ原で戦勝した徳川家康が、
江戸・桜田山(東京都港区、愛宕山)に勧請した
ことでもよく知られています。
 

千日詣り

毎年7月31日は「千日詣り (千日参り)」の日、
(正式名「千日通夜祭」(せんにちつうやさい)
です。
「千日詣で」と称するのは、
この日に参詣すれば
1000日分の御利益があると言われるからです。
 
愛宕神社では、
7月31日の夜から翌8月1日にかけた真夜中に
「火伏せ神事」が行なわれるため、
毎年数万人の参拝者が頂上を目指し、
「火迺要鎮」(ひのようじん) のお札を求めます。
・夕御饌祭(ゆうみけさい)7/31 21:00
・朝御饌祭(あさみけさい)8/1  2:00
 
7月31日夜から8月1日の早朝にかけて
麓の清滝から山頂の愛宕神社までの
約4㎞の登山道 (表参道) には明かりが点灯され、
辛い登り道を行く人に、
下りの参詣者は「お上(のぼ)りやす」と声を掛け、
掛けられた方は「お下(くだ)りやす」と返すのが、
「千日詣で」では恒例になっています。
 
残念ながら、令和6(2024)年の「千日詣り」は
新たな法改正と喧嘩の社会事情により、
夜間の電気の通電並びに設営が困難となり
夜間早朝の神符授与・社頭応対は
中止となりました。
(祭典は神職のみで執り行われます。)
 
代わって、7月23日から8月1日の10日間に渡り、
昼間(午前9時から午後4時)の参拝が
「千日詣り」とされることになりました。
 
7月31日から8月1日にかけ、
参道に灯りはつきませんので、
「夜間参拝」は大変危険ですので、
昼間に参拝して下さい。
 

火迺要慎(ひのようじん)

「ひのようじん」と言えば、通常、
「火の扱いに心を用いよ(注意せよ)」の意で
「火の用心」と書きますが、
愛宕山のお札は「火迺要慎」と当て字で書き、「火はすなわち慎重に扱うことを要とせよ」(慎重にも慎重をきせ!)
との戒めが込められているようです。