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七十二候「鷹乃学習」

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「たかすなわちわざをならう」
と読みます。
 
5~6月に孵化したヒナは、
この頃に飛び方や狩りの方法を覚え、
独り立ちに備えます。
 
 
「鷹狩り」(たかがり)は、
飼い慣らし訓練した鷹を山野に放って、
野生の鳥・小さい獣を捕らえさせる
間接的な狩猟法で、
紀元前1000年代から、
蒙古・中国・インド・トルキスタンの
広大な平野で既に発達していました。
 
日本に伝えられたのは、
仁徳天皇43(355)年と言われていますが、
もっと古くから行われていたようで、
石器時代の貝塚からは
鷹の骨が多く見つかっていますし、
古墳時代の埴輪の中には、
尻に鈴をつけた鷹匠の埴輪も出ています。
『古事記』や『日本書紀』にも
「鷹匠」(たかじょう)は登場しています。
「鷹匠」とは、鷹を訓練して調教し、捕獲能力の高い鷹へと育て上げる専門家のことです。

 

 
「鷹狩り」は、平安時代には
下火になる時期もあったそうですが、
武士が台頭してからは、
鷹の力強さなどが好まれ、
勇壮なスポーツとして再び人気となりました。
 

 
特に織田信長は、大の「鷹狩り」好きとして
知られています。
『信長公記』(しんちょうこうき)には、
「鷹狩り」の様子が何度も出てきます。
 
信長はまず、「鳥見(とりみ)の衆」と
名付けた家臣20人を二人一組で、
2里(8km)、3里(12km)も先へやります。
「鳥見の衆」が獲物を発見すると、
1人は鳥に付け置き、1人は報告に行きます。
 
その他、弓と槍を持った「六人衆」と
「馬乗」と呼ばれる者1人を
信長の近くに控えさせます。
 
更に、鷹が獲物を捕獲して着地する地点近くに
予め農夫を装った「向かい待ち」を待機させ、
この「向かい待ち」に獲物を押さえさせます。
 
獲物を定められると、「馬乗」が
藁に虻(あぶ)を付けて回しながら近寄り、
獲物の注意を引き付けます。
 
そこに信長自身が鷹を手に据えて、
馬の陰に隠れて近づき、
近くになると馬の陰から走り出て、
鷹を放ちます。
 
鷹が獲物に取り付いて組み合いになると、
「向かい待ち」が出て鳥を押さえます。
 
そんな信長には、諸国の大名達が我先にと、「鷹」を献上したそうです。
 

   

 
江戸幕府を開いた徳川家康は、
「鷹」を最高権力者の象徴として、
諸大名や公家が許可なく
「鷹狩り」を行うことを禁止しました。
 
「鷹狩り」は「生類憐みの令」で一旦中断し、
鷹匠・鳥見など役職や鷹場も廃止されましたが
徳川吉宗が8代将軍に就任すると、復活を命じ、
これにより「鷹」は再び権力の象徴として
蘇りました。
明治初頭、当時の博物局によって、
日本の代表的産物・産業について取り上げた
教草(おしえぐさ)』(30数枚1組)の中で、
鷹の種類、道具、調教方法、狩りの時期などが紹介されています。
 
『教草』(おしえぐさ)とは、
海外博覧会で「日本のものづくり」を
分かりやすく紹介することと、
日本の子供達が「日本のものづくり」を
学ぶための教材とすることを目的に、
刊行されたものです。
「教草」(おしえぐさ)という言葉は、
江戸時代、往来もの(初等教育用の教材)の
意味で用いられていました。
 
しかしその後は衰えて、現在は宮内庁に
「鷹師」「鷹匠」が存在するのみです。
 

国立公文書館 に所蔵されており、これらの文書が含まれる「公文録)」は、
1998(平成10)年に国の重要文化財に指定されています。

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