「たかすなわちわざをならう」
と読みます。
5~6月に孵化したヒナは、この頃に飛び方や狩りの方法を覚え、
独り立ちに備えます。
鷹を巧みに扱い、狩りを行う「鷹狩り」は、
紀元前およそ1000前から、Chinaやインドで行われていたそうです。
日本でも古くから行われていたようで、
石器時代の貝塚からは鷹の骨が多く見つかっておりますし、
古墳時代の尻に鈴をつけた鷹匠の埴輪も出ています。
『古事記』や『日本書紀』にも「鷹匠」は登場しています。
「鷹匠」とは、鷹を訓練して調教し、
捕獲能力の高い鷹へと育て上げる専門家のことです。
「鷹狩り」は、平安時代には下火になる時期もあったそうですが、
武士が台頭してからは、
鷹の力強さなどが好まれ、再び人気となりました。
特に、織田信長は大の鷹狩り好きとして知られています。
『信長公記』には、鷹狩りの様子が何度も出てきます。
天台宗の高僧・天沢和尚(てんたくおしょう)と武田信玄との対話の中で、
信長の鷹狩りの様子が記述されています。
信長はまず、
「鳥見(とりみ)の衆」と名付けた家臣20人を二人一組で
2里(8km)、3里(12km)も先へやります。
この「鳥見の衆」は、
「あそこの村、ここに、雁がいる、鶴がいる」と見つけると、
1人は鳥に付け置き、1人は報告に行きます。
更に、弓と槍を持った「六人衆」と「馬乗」と呼ばれる者1人を
信長の近くに控えさせます。
また、鷹が獲物を捕獲して着地する地点近くには、
予め農夫を装った「向かい待ち」を待機させ、
この「向かい待ち」に、最終的に獲物である鳥を押さえさせます。
獲物を定められると、
騎馬の者が藁に虻(あぶ)を付けて回しながら近寄り、
鳥の注意を引き付けます。
そして信長自身が鷹を手に据えて、馬の陰に隠れて近づき、
近くになると馬の陰から走り出て、鷹を放ちます。
鷹が鳥に取り付いて組み合いになると、向待の者が出て鳥を抑えます。
信長と言えば、茶道具の「名物狩り」が有名ですが、
諸国の大名達が我先にと、「鷹」を献上した話も有名です。
明治初頭、日本の代表的産物・産業について取り上げた
海外博覧会で「日本のものづくり」を分かりやすく紹介すること、
それらを日本の子供達が学ぶ教材とすることを目的に
当時の博物局によって刊行されました。
「教草」(おしえぐさ)という言葉は、
江戸時代、往来もの(初等教育用の教材)の意味で用いられていました。
その『教草』の中にも、
鷹の種類、道具、調教方法、狩りの時期などが記されています。
画像は、明治6年(1873)のウィーン万国博覧会で紹介した日本の伝統的な技術や産業などを、子ども向けにわかりやすく図解した『教草(おしえぐさ)』のなかの1枚です。鷹の種類、道具、調教方法、狩りの時期などが記されています。 pic.twitter.com/DEmya3FTfY
— 国立公文書館 (@JPNatArchives) March 16, 2017
国立公文書館 に所蔵されており、これらの文書が含まれる「公文録)」は、
1998(平成10)年に国の重要文化財に指定されています。
コレクション -教草 -農場博物館 - 東大生態調和農学機構 - 東京大学