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童謡「夕焼け小焼け」

 

秋は「夕焼け」が一番きれいな季節ですね。
キレイな「夕焼け」を眺めていると
何だか早く家に帰りたくなるから不思議です。
 
全国の市町村では、「夕焼けチャイム」に
童謡の『夕焼け小焼け』のメロディーが
使われていて、外で遊んでいても、
その音が鳴ると家に帰ったという
記憶を持つ方も多いのではないでしょうか?
 
 

童謡「夕焼け小焼け」

 夕焼け小焼けで日が暮れて
 山のお寺の鐘がなる
 お手て繋いで皆帰ろう
 烏と一緒に帰りましょ
 
 子供が帰った後からは
 丸い大きなお月さま
 小鳥が夢を見る頃は
 空にはキラキラ金の星
 
 
『夕焼け小焼け(夕焼小焼)』は、
大正8(1919)年に中村雨虹 (うこう) が作詞し、
大正12(1923)年に草川信 (しん) が作曲し、
大正12(1923)年に7月、文化楽社から
文化楽譜『あたらしい童謡』として
発表された、童謡としては
最も広く親しまれている作品の一つで、
全国各地に数多く歌碑が建てられている、
まさに日本人の心の原風景とも言えるかも
しれませんね。
 
「夕焼け小焼け」の誕生秘話
 
「夕焼け小焼け」は、大正12(1923)年に
『文化楽譜・あたらしい童謡』に
草川信の曲を得て発表されたものです。
 
『文化楽譜・あたらしい童謡』は、
輸入ピアノを売る店「鈴木ピアノ」が
ピアノ購入者に無料プレゼントしていた
新作童謡を集めた楽譜集です。
 
 
新作童謡を探していた
「鈴木ピアノ」の鈴木社長が雨紅に詩の依頼、
雨紅は提出した5編の詩の中に
「ゆうやけこやけ」があったのです。
そして大正12(1923)年7月31日に、
『文化楽譜・あたらしい童謡』に
草川信の曲を得て発表されました。
 
 
ところがひと月後の9月1日の午前11時58分、
「関東大震災」が発生。
「ゆうやけこやけ」の入った譜面集も、
この世から消えてしまったと思われましたが、
何と、僅かに人手に渡っていた13部の楽譜から
この歌が広がったのでした。
 
「小焼け」とは?
 
「夕焼け」は、太陽が沈む時に
空が真っ赤に染まる現象を言いますが、
「小焼け」とは、一体、何でしょうか?
 
『日本国語大辞典』の「夕焼小焼」には、
(「こやけ」は、語調を整えるために添えたもの)「ゆうやけ(夕焼)」に同じ。
とあるように、
「小焼け」自体は余り意味を持たない語で、
語調を整えるために添えたという説があります。
「ゆうやけこやけ」とすることで、
「やけ」の繰り返しが耳に心地良く
7文字になってリズムが良くなるのです。
 
童謡詩人の金子みすゞは、
『大漁』(1924年) という詩の冒頭で
「朝焼小焼だ 大漁だ」と
「朝焼け」に「小焼け」をつけています。
 
 
また「新明解国語辞典」(三省堂) は、
「小焼け」を「夕焼けがだんだん薄れること」としています。
 
夕焼けチャイムは
防災無線の試験放送だった‼
 
多くの市町村で夕方の決まった時刻に
「夕焼け小焼け」等のチャイムを流しています。
 
総務省のサイトによると、このチャイムは
市町村防災行政無線しちょうそんぼうさいぎょうせいむせん (同報系防災行政無線)」
という防災無線の一種で、
各市町村が運営管理し、防災や災害復旧、
応急救助などに使用されるものだそうです。
 
そして「市町村防災行政無線」は、その性質上、
常に正しく作動することが求められるため、
毎日試験放送を行って点検するために、
夕方に音楽が流れているのです。
ところで「市町村防災行政無線」の
点検の時間帯や流す音楽は、
自治体に任せられています。
 
そこで多くの自治体では
生活の邪魔にならない時間帯に、
サイレンのようにうるさくなく、
子供達の見守りにもなるような音楽として
「夕焼け小焼け」を採用しているようです。
 
なお昭和59(1984)年は31%だった
市町村防災行政無線の整備率は、
平成12(2000)年時点では65%まで上昇し、
令和元(2019)年には78.5%に達し、
千葉県・山梨県・岐阜県・静岡県・
三重県・和歌山県・鳥取県・島根県では、
整備率が100%に到達しています。
 

作詞者・中村雨虹

作詞者の中村雨虹 (なかむらうこう)
本名は高井宮吉 (たかいみやきち) は、
明治30(1897)年に
東京府南多摩郡恩方村 (現・八王子市) に生まれ、
大正5(1916)年に東京の師範学校卒業後、
日暮里の小学校の教師になりました。
大正6(1917)年に現在の町田市相原町の
伯母さんの嫁ぎ先の中村家の養子になりました
(後に解消)。
 
中村宮吉は教職のかたわら、
童話や童謡を児童雑誌『金の船』に
投稿していました。
そんな中で野口雨情に知己を得て、
雨情の「雨」の一字を貰って、
筆名を「雨紅」(うこう) とし、
主として童謡を書くようになりました。
 

www.kinnohoshi.co.jp

 
雨紅は昭和31(1956)年刊行『教育音楽』の
「夕焼け小焼けを作詩する頃」の中で、
「夕焼け小焼け」の作詩がいつされたものか
はっきりしないとしています。
 
ただ、夏休みで故郷に帰省する道のりを
てくてくと歩いた時に聞いた時に聞いた
暮れ六つを知らせる寺の鐘の音、
幼い頃から心にしみ込んでいた郷愁などの
感傷も加わって、作詞したのではないかと
書き残しています。
 
 

作曲者・草川信

 
草川信(くさかわ しん)は、長野県松代出身で、
大正6(1917)年東京音楽学校卒業後、
主席ヴァイオリニストとして活躍した他、
「赤い鳥運動」に作曲家として参画し、
「夕焼けこやけ」「汽車ポッポ」「春の歌」
「お山の大将」「ゆりかごの歌」
「どこかで春が」などの童謡を作曲しました。
 
 
昭和5(1930)年1月15日春秋社発行の
『世界音楽全集第十一巻 日本童謡曲集』の中で
草川信はこう書いています。
「よく私は少年の日を過ごした故郷にでも、
 立ち帰ったような気持ちで
 曲を書くことがありますが、
 この曲等が正にそれです。
 中村さんのこの歌詞への作曲をします時、
 善光寺や阿弥陀堂の鐘が
 耳の底にかすかに鳴って居りました。
 山々の頂が夕映えで美しく光って居りました。
 山国の夕暮は静かにしかも美しくありました
 云々」と。
 

「山のお寺の鐘が鳴る」って
どこの鐘?

 
「夕焼け小焼け」の歌詞の中には
「山のお寺の鐘が鳴る」とありますが、
それがどこであるかについて論争があります。
 
中村雨紅が「夕焼け小焼け」を発表したのは1923(大正12)年で、当時の勤務地の
第二日暮里小学校から故郷までの道を
歩きながら見た風景を
歌詞にしたと言われています。
 
そこで中村雨紅の出生地の八王子市内には、
「山のお寺の鐘は我が寺の鐘である」と
主張する寺院が3つあります。
八王子の「宝生寺」(ほうしょうじ)
下恩方の「観栖寺」(かんせいじ)
上恩方の「興慶寺」(こうけいじ) です。
観栖寺と室生寺には
「夕焼け小焼け」の碑が建立されており、
興慶寺も夕焼けの梵鐘があって、
それぞれに雨紅筆の歌が刻まれています。
 
また、中村雨紅の養子先の町田市相原町も
「山のお寺の鐘」に名乗りを上げています。
これらに対して、
中村雨紅は次のように書き残しています。
「遠い昔のことで、あの鐘の音は
 どこの鐘楼から聞こえてきたか
 忘れてしまったよ。
 みんなの心の中にある夕焼けの鐘で
 いいんじゃないかな。
 草川先生は長野善光寺さんの鐘と言ったが、
 私は郷里の全部のお寺の鐘であったと思うが
 いけないかね。」