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富士信仰

 
富士山は、その孤高の美しさだけでなく、
荒ぶる噴火により神の住む山として畏れられ、
特別な山として信仰の対象となってきました。
 
 

「富士信仰」の始まり

 
標高3,776m、日本一の高さを誇る富士山は、
その壮大さと山容の美しさから
日本一の山、名山と讃えられてきました。
 
しかしその一方で、古来より、日本人は、
噴火を繰り返す富士山を
山頂に神仏が住む霊山として、
「山岳信仰」の対象としてきました。
 
山岳信仰
「山岳信仰」とは、自然崇拝の一種で、
特に山岳と関係の深い民族が、
山の自然環境に対して畏怖する気持ちや、
山の自然から得られる恩恵に感謝する
気持ちから発展した宗教形態です。
 
「山岳信仰」がある地域では、
山に依存した生活を送る一方で、
険しい山や自然環境に命を奪われることを
恐れて、山に霊力があると信じ、
自らの生活を律するためにも、
山の圧倒感を利用する傾向にあります。
 
日本列島全体を見渡すと、
山と森を合わせて国土の75%前後にもなる、
これだけの山が存在するという環境が、
山への信仰を育む素地を作ったと言える
でしょう。
 
そして太古の昔には、
肉体を離れた死者の魂は
山に帰るという考えもあり、
先祖霊供養の場としても、
「山岳信仰」は発展しました。
 
遥拝(ようはい)
 
「富士信仰」の原初的な形は、
遠くから富士山を仰ぎ見て手を合わせる
「遙拝」(ようはい) であったと考えられて
います。
 
 
富士山の周辺には、縄文時代の祭祀遺跡、
「牛石遺跡」(都留市) や「千居遺跡」(富士宮市)
などが発掘されていることから、
かなり昔から「富士信仰」の原型が存在したと
考えられています。
 
浅間神社の建立

 
富士山が噴火を繰り返していた頃、
富士山の麓に「浅間神社」を建立して
「浅間大神」(あさまのおおかみ)
-「木花之佐久夜毘売」(このはなのさくやびめ) ーを
祀り、噴火を鎮めるための祈りを捧げました。
これが「富士信仰」の始まりと言われています。
富士山麓の浅間神社は、
富士山の噴火を鎮めるために富士山を
神 (浅間神または浅間大神) として祀ったもので、
富士山本宮浅間大社ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ」は最も早く成立したものとされ、全国に1300社ある浅間神社の総本宮と
されます。
本宮の本殿は、慶長9(1604)年に徳川家康による
造営で「浅間造り」という独自の建築様式です。
祭神を「木花之佐久夜毘売命このはなのさくやひめのみこと」とし、
祭神にまつわる桜を神木として
境内に五百本の桜樹が奉納されています。

www.fuji-hongu.or.jp

 

修験道との習合

平安時代後期には、富士山の山頂は、
仏の世界、または仏が神の形となって
現れる場所があると考えられ、
富士山の持つ神力、霊力を得ようと
「修験者」などが山中に足を踏み入れるように
なりました。
 
「修験道」(しゅげんどう)とは
7~8世紀頃になると、
山を神とする日本古来の「山岳信仰」と
仏教、特に密教が習合した
「神仏習合」思想のひとつである
「修験道」(しゅげんどう) という
独自の信仰形態が生まれました。
 
これは、役小角 (えんのおづの) を開祖とし、
山中で厳しい修行を行うことで、
山の霊的な力を借りて悟りや
超自然的な霊力の獲得しようとするもので、
日本全国に霊場とされる山があります。
富士山・白山・立山(または木曽御嶽山)は、
一般的に「日本三霊山」と言われています。
 
開祖とされる役小角(役行者)は、
文武天皇3(699)年に伊豆に流された時、
夜は富士山に飛んで行き、
修行したという伝説があります。
 
「遥拝」から「登拝」へ
修験道が飛躍的に発展した9世紀、
富士山は噴火を繰り返していたので
(「延暦の大噴火」「貞観の大噴火」)、
他の「修験道」の山に比べて
開拓が遅れていました。
 
 
平安時代末期(11世紀頃)になり、
富士山の噴火活動が沈静化すると、
修験者が山中に分け入るようになりました。
これを機に「神仏習合」のプロセスで
浅間大神は「浅間大菩薩」(せんげんだいぼさつ)
本地仏は「大日如来」とされ、
富士山頂に仏の世界があると考えられ、
多くの修験者が山頂を目指しました。
 
平安時代の12世紀には、
駿河の国の末代上人 (まつだいしょうにん)
何百回も富士山に登り、
富士山頂に「大日寺」(だいにちじ) を建立するなど
富士登山信仰の素地を作ったことから
「富士修験の祖」と仰がれています。
 
こうして信仰の形が、
麓から富士山を拝む「遙拝」(ようはい) から、
山中での修行を目的としたり
富士山の護神徳を拝しながら登山する
「登拝」(とはい) に変化していきました。
 

「修験道」から「富士講」へ

富士登拝の一般大衆化
鎌倉時代の末から室町時代にかけて、
「浄土思想」の広まりを背景に、
「修験道」は庶民に開かれていきました。
またインド仏教の「須弥山信仰」が
富士山にも投影されて、
富士山頂が極楽浄土だというイメージも
出来ました。
 
室町時代後半になると、
「富士登拝」(ふじとはい) は修行者だけでなく、
次第に大衆化されていきました。
登山者が増えるにつれて
険しい山内には登山道が出来たり、
参詣者のための宿坊が出来るなど、
庶民も登頂を目指せる状態へ近づいて
いきました。
 
 
「富士講」の開祖・
長谷川角行(はせがわかくぎょう)
戦国時代になると、九州長崎の生まれの
長谷川角行 (はせがわかくぎょう)
戦国の動乱が静まり、
人々が安心して暮らせる世の中を願って
諸国の霊場への巡礼の旅に出たと言います。
 
岩手県のある岩窟で修行中、
霊夢に現れた役行者の教示により
「西の浄土」「浅間大菩薩」の住んでいる所と
考えられていた「人穴」(ひとあな)
修行を始めました。
『吾妻鏡』によると、鎌倉幕府の2代将軍・
源頼家が富士の巻狩りをした時に、
「人穴」(ひとあな) という洞窟があることを知り、
家来の新田四郎忠常にの探検をさせました。
忠常は6人の家来と共に洞窟に入りますが、
そのうちに大きな河が立ちはだかり、
先に進めなくなり、更に対岸から襲ってきた
火の光が当たり4人の家来が死んでしまいます。
忠常は霊の教えにより頼家から賜った剣を
河に投げ入れ難を逃れたという話です。
室町時代、この話を基に『富士の人穴草紙』と
いう本が作られます。
その本の中で忠常は、浅間大菩薩に出会って
地獄の話を聞く場面が出てきます。
すると、いつしか「人穴」は浅間大菩薩の
住んでいる所「御在所」と考えられ、
「西の浄土」とも呼ばれるようになりました。
 
伝説によれば、角行 (かくぎょう) は、
白糸の滝で身を清めた後、
「人穴」の洞窟に籠って、
14㎝四方の木材の上での千日間の「立行」、
穀物を絶つ修行「木食行」(もくじきぎょう)
百日の「水行」、
北口本宮冨士浅間神社参道にある大石の上で
30日間裸体での「立行」といった
苦行を行ったと言われています。
そして遂に、浅間大菩薩から法力を得て、
祈祷の力により諸病平癒などで
庶民を救済したそうです。
また、元亀3(1572)年に初めて富士登山を
北口(吉田口)から行ったそうで、
のべ128回も富士登山をしたそうです。
 
元和6(1620)年、江戸で「ツキタオシ」という
奇病が流行し、3日で1千人の死者を出す中で、
角行 (かくぎょう)
「風先侎」(ふせぎ) という御符を授けて、
祈祷の力で多くの患者の命を救ったことから
江戸の多くの人々に「富士信仰」が広がる
きっかけになったと言われています。
 
しかしまだこの頃は、
「富士講」の組織は存在せず、
信仰を共にする小規模の師弟集団で、
角行が106歳人穴で入寂後に、
師の教えを引き継いだ2人の弟子、
村上光清 (むらかみうせい) と食行身禄 (じきぎょうみろく) が「富士講中興の祖」となり、
「富士山信仰」を更に大きな組織にし、
「富士講」人気へと繋げました。