うまずたゆまず

コツコツと

殿様も大好き、冬の定番おやつ「焼き芋」

 

寒くなって来ると、ホッカホカで甘い
「焼き芋」が恋しくなります。
 
 

薩摩芋(さつまいも)

 
サツマイモはの原産国は中南米とされており、
栽培は紀元前1万年〜8000年前から始まったと
言われています。
 
日本に伝播


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日本には約400年前と比較的新しい
慶長10(1605)年に琉球に入って来ました。
元和元(1615)年には琉球から長崎に入り、
平戸で初めて栽培されたと言われています。
更に薩摩(現在の鹿児島県)に伝わり
そこから日本各地に伝わったため
「薩摩芋」(さつまいも) と呼ばれています。
 
慶長・元和の頃、薩摩にはルソンから
入ったなど、上記の他にも
サツマイモが日本に伝播したルートは
複数あったと考えられています。
 
飢饉対策から
日本全国に伝播
 
サツマイモは、飢饉の時の代用作物として
幕府が栽培を奨励したことから、
江戸時代中期のうちに日本全国に広まりました。
享保17(1732)の「享保の大飢饉」で
薩摩芋を生産している薩摩では
餓死者がほとんど出ていないことを知った
8代将軍吉宗が薩摩芋の生産の推奨しました。
 
  
 
薩摩芋は、すぐ農家の普段の日の食料として
たくさん作られるようになり、
都市に住む人達からも好まれるように
なりました。
京都・大坂・江戸などの大都市では、
それを蒸したり焼いたりして売る人が現れ、
江戸では「焼き芋」が受けて、
冬のおやつの定番になりました。
 

江戸「焼き芋」

 
焼き芋の登場
サツマイモの焼き芋が江戸に登場したのは
寛永5(1793)年の冬の事です。
『宝暦現来集』(ほうれきげんらいしゅう) には、
「芋を焼て売事。寛正五年の冬、
 本郷四丁目番家にて初て八里半と云ふ
 行灯を出し、焼芋売始と云ふ。
 其後小石川白山町家にて十三里と云ふ
 行灯を出候。是も右焼芋なり。」
とあります。
「八里半」「十三里」は焼き芋の宣伝名で、
秋の味覚の代表「栗」の風味に似ていて、
「八里半」の方は
「栗 (九里) にはちょっと及びませんが」と
少し遠慮気味ですが、
「十三里」の方は
「栗 (九里) より(四里) 旨い十三里」と強気。
江戸からちょうど十三里の距離にある
川越産の薩摩芋が特に上物とされたことからの宣伝文句とも言われます。
 
木戸番の内職
 
最初に焼芋を売り出したのは
本郷四丁目の「番屋」でした。
 
江戸では治安維持のため
町の入り口と出口に「木戸」があり、
その脇には「木戸番屋」があって、
町が雇った木戸番「番太郎」が詰めて、
朝晩の木戸の開閉と火の番をしていました。
番太郎には町内から手当てが出ていましたが、
それだけでは生活出来ないので、内職として
番屋で雑貨や駄菓子などを売ることが許され、
今のコンビニのようなところになっていて、
「商番屋」(あきないばんや) とも呼ばれていた
そうです。
 
 
火を使っての商売は、防火上、
禁じられていましたが、
木戸番は火の用心の仕事もするので
特別に火を使うことを許され、
本郷四丁目の「番屋」が評判となると、
すぐに他の木戸番達がわれもわれもと
次々に焼芋を商い始めたことから、
江戸八百八町の一町毎に焼芋屋が出来ました。
 
最初は毒があるという噂もあって
食べない者もいたようですが、
焼き芋は、甘くて香りが良く美味しい上に、
江戸時代から戦前までは
食べ物の中で一番安いものであったことから、
老若男女貴賤を問わず人気となりました。
焼き芋の一冬の一軒の売り上げは
20~30両から100両にもなったそうです。
 
 
焼き芋ファンには大名もいました。
豊後国臼杵藩の11代藩主稲葉雍通 (てるみち) 
44歳で隠居した後は江戸下屋敷に移り、
比較的自由気儘な生活を楽しみ、
祭礼や花火、相撲があると聞けば早速出掛け、
時には他藩の大名行列の見物までしました。
そしてその帰りには家族などへのお土産を買うことも楽しみ、その中に焼芋もありました。
屋敷でも普段の子供のおやつに焼芋を買い、
その値段は弘化3(1846)年では
一回に50~100文程であったそうです。
 
  
 
本場ものは川越
 
「食べ物の中で一番安い」ということは、
原料の芋も高いものではないハズ。
安い、重い、嵩張るそういうものは
陸送では割に合わないので船で運ぶしかない、
となると、江戸の焼き芋用の芋の大産地は
二ヶ所しかありませんでした。
 
 
一つは海運で、今の千葉市幕張地区である
下総の馬加 (まくわり) 村地方で、
もう一つは舟運があった川越藩領の村々で、
両者の芋の供給力は互角でしたが、
川越の方が上質とされ、
「本場ものは川越」となりました。
 
 
江戸の「焼き芋」は?
江戸での芋の焼き方は、
今の「石焼き芋」とは全く違うものでした。
 
 
最初の頃は、店の土間や庇 (ひさし) の下に、
土で竈を作り、焙烙 (ほうろく) を載せます。
焙烙の底には芋を並べて、
重い木の蓋をして蒸し焼きにしました。
 
 
燃料は古俵と古縄です。
江戸には全国から様々な物資が入り、
その梱包材料は俵と縄だったので、
毎日大量に出た使い古しを安く買って
燃料にしました。
 
 
やがて客の多い焼き芋屋では、
焙烙では間に合わなくなったことから、
鋳物の大きくて浅い平鍋を使うように
なりました。
 
なお当時、焼き芋には
芋を丸ごと焼く「まる焼き」と、
大芋をいくつかには薄切りにして焼く
「切り焼き」がありました。
江戸っ子は「まる焼き」の方を好んだようで、
焼き芋屋の看板にも「○焼き」とあるものが
多かったそうです。
 

上方は「ほっこり」

江戸の焼き芋は店売りが主でしたが、
上方(京都や大坂)では店売りは僅かで、
ほとんどは芋を蒸して箱に入れて
「ほっこり、ほっこり」と言いながら
町の中を売り歩く「蒸しいも屋」でした。
 

焼き芋の全盛期は
明治

江戸の焼き芋屋の多くは
木戸番小屋での内職でしたので
小規模店での営業でした。
 
 
ところが明治維新で江戸が東京になると、
大きな竈を三つも四つも並べ、
人を使って大量の芋を焼く大型専業店が
続々と現れました。
 
明治に入ると米価変動が大きいこともあって、
安定した低価格で供給される焼き芋は
下町の低所得層などにとっては
無くてはならない命の綱だったことから、
需要が増したのです。
 
 
大型専業店の代表が下谷御徒町にあった
明治2(1869)年創業の「芋庄」でした。
森銑三の『明治東京逸聞史1』によると、
芋庄では4つの竈を使って1日に90回も焼き、
その売り上げは1日で15円以上にもなると
あります。
 
これは、第一銀行の大卒の初任給が
明治41(1908)年は35円の時ですから、
大したものです。
 
 
なお「焼き芋屋」は、夏は「かき氷屋」になる
店が多かったようです。
 

関東大震災

 
ところがこれも大正12(1923)年の
「関東大震災」まででした。
 
時代遅れ
大震災で東京は壊滅しましたが、復興は早く、
焼き芋屋の多くも店を再建しました。
ところが焼けば売れた焼き芋が、
震災後は嘘のように売れなくなりました。
何でも新しいものが好まれるようになり、
江戸時代以来の風俗習慣は嫌われ、
時代遅れになっていました。
 
 
それはおやつの世界でも同じで、
冬のおやつと言えば焼き芋だったのに、
震災後のおやつの中心は
菓子パン、ビスケット、カステラ、キャラメル、
チョコレートなどの洋菓子に移ってしまった
のです。
これらは既に明治期にもありましたが、
大正期になると第一次大戦による戦争景気と
工場での量産方式の発達による価格低下で、
普通の人でも買えるものになっていました。
大震災はちょうどそういう時期に起こり、
洋菓子が一気に伸びた一方、
焼き芋は古くさいものになってしまったの
です。
多くの焼き芋屋が廃業しました。
 
大学いも
 
それでもどうしても薩摩芋で商売を続けたい
人達が始めたのが、昭和の初めに現れた
「大学いも」でした。
 
 
その名前の起源については諸説があります。
最も有力とされるのが、大正から昭和にかけて
東京の神田近辺の学生街で
中央大学や明治大学などの大学生が
好んで食べていたためという説です。
昭和初期に東大(東京帝国大学)の学生が
学費を捻出するために始めたという説も
あります。
東大赤門の前に三河屋というふかし芋屋があり、
大正初期に蜜に絡めた芋を売ったのが
大学生の間で人気を呼び、
この名がついたという説もあります。
 
 
吉村昭『東京の下町』には、小学3-4年生の頃、
大学いもを売る店が突然現れ、
その店の男はどこで仕入れたのか
帝大(東京帝国大学)の徽章のついた学生帽を
被っていたとあります。
 
つぼ焼き
「大学いも」とほぼ同時に現れたものに
「つぼ焼き」がありました。
 
「つぼ焼き」は、壺の内側沿いに
芋を丸のままビッシリと吊し、
壺の上を鉄の蓋で蓋をして
じっくりと蒸し焼きにしたものです。
 
これはChina東北地方が元祖で、
それが上海に入り、
日本には昭和4(1929)年の暮れ頃、関西に入り、
が翌年には東京に入り、瞬く間に500軒以上の
つぼ焼き屋が出来たそうです。
竈焼きが次々に消えていく中でも、
大震災後の新しいもの好みにより、目新しさで
「つぼ焼き」が急増したのでしょう。
 

戦後、石焼き芋が登場

第二次世界大戦の戦災により、
かま焼きの店も壺焼き屋も
ほとんどが消えてしまいました。
その時それに代わって現れたのが
昭和26(1951)年に登場した「石焼き芋」でした。
 
引き売り屋台
 
戦前の東京の焼き芋屋は
かま焼きの店も壺焼き屋も店の中で芋を焼き、
そこで売っていましたが、
石焼き芋は店に来てくれる客を待つのではなく
鉄板製の箱に小石を入れ、
それで芋を焼く道具をリヤカーに乗せて、
町の中を売り歩くという「引き売り屋台」の
新式でした。
 
元祖は墨田区向島で、
元々はラーメン屋をしていた
三野輪万蔵 (みのわまんぞう) さんでした。
 
三野輪さんは、特製のリヤカーを設計して
大きくて、頑丈なものを鉄工所に作らせます。
釜は鉄だし、石を大量に使うので、
重過ぎて普通のリヤカーではもたないため
です。
 
三野輪さんは石焼き芋で成功すると、
やがて売り子を抱える親方になりました。
そして道具一式と、芋、燃料、そして宿舎を
用意して売り子を使いました。
 
三野輪さんから道具を借りて石焼き芋を売る
売り子の数は次第に増え、
最盛期には30~40人にもなったそうです。
三野輪さんは新潟県出身だったので、
売り子は雪国、特に新潟県やあとは青森県の
農家の出稼ぎが多かったそうです。
三野輪さんは自宅の脇にバラックを建て、
売り子を宿泊させました。
 
三野輪さんが石焼き芋で成功すると、
それに倣って同じことを始める人が現れ、
焼き芋と言えば「石焼き芋」となりました。
当時東京の売り子は1000人以上いたそうです。
 
石焼き芋用の小石
 
建材屋にある「大磯三分」が良いと
言われていました。
あの大きさが熱を芋に均等に伝えるのに
良かったんだそうです。
 
呼び声
石焼き芋のリヤカーは、
最初は振鈴をチリンチリンと鳴らしながら
回っていました。
ところが当時はゴミの収集車も
同じような鈴を使っていたので、
ゴミ屋さんとよく間違われてしまいました。
 
そこでチリンチリンはまずいとなり、
蒸気でピーピーと音を出し続けるように
しました。
 
ところがそれも長くは続かず、
「いしや~きいも」という売り声になりました。
最初はハンドマイクでやっていましたが、
いつの間にかエンドレステープになりました。
 
大阪万博
 
日本は1950年代中盤から1970年代初頭にかけ、
年平均約10%もの実質経済成長率を
達成すると同時に、
国民生活の向上も果たしました。
いわゆる「高度成長期」です。
「石焼き芋」もこの頃が最盛期で、
いくらでも売れました。
 
ところが昭和45(1970)年の大阪万博あたりから
落ち目になり出します。
万博を機に海外から
ファーストフードの有力店が続々と上陸し、
その後のコンビニの発展も響きました。