うまずたゆまず

コツコツと

「久松留守」(ひさまつ・るす)と貼り紙をして、風邪予防⁉

 
江戸から明治時代、
風邪(感冒)の流行が度々起こりました。
そしてその予防法として
非常にユニークな「おまじない」が
あったことが知られています。
 
 

江戸時代の「はやり風邪」

江戸時代には多くの「風邪」が流行しました。
 
 
最初の流行は慶長19(1614)年で、
この冬から翌年元和元(1615)年にかけては
津軽では8月に霜を見たというほどの寒冷で、
「幾内近畿、風疾流行」したようです。
 
享保元(1716)年、江戸の町で流行した風邪は
ひと月で8万人以上を死亡させたと
記録されています。
 
 
その後、18世紀後半から19世紀にかけての
日本は気温が異常に落ち込み、
特に天明から天保にかけて飢餓時代となり、
体力の衰弱した人々を
ウイルスが襲ったことにより
質の悪い風邪の流行を拡大・激化させました。
そしてこの時期辺りから、
質の悪い風邪が流行すると、
その年流行の出来事や有名人の名前や
流行の始まった土地名をとって
「○○風」と名付け、
その病因や症状、流行の速度や死者の数を
細かく観察し、語り継いできました。
 

お染風邪

お染風邪とは
「お染風邪」(おそめかぜ) は、
1889年に発生した「Russian flu (ロシア風邪)」が
明治23(1990)年に日本に上陸して流行した時に
称された風邪です。
 
 
明治から昭和初期の劇作家・小説家である
岡本綺堂 (おかもときどう)
随筆『二階から』の「お染風」 に
描かれていますのでご紹介いたします。
これによると、「お染風邪」という名称は、
江戸時代には、既に付けられていたようです。
 
この春はインフルエンザが流行した。
日本で初めてこの病が流行り出したのは明治23年の冬で、24年の春に至ってますます猖獗になった。
我々はその時初めてインフルエンザという病名を知って、それは仏蘭西の船から横浜に輸入されたものだという噂を聞いた。しかしその当時はインフルエンザと呼ばずに普通はお染風といっていた。
何故お染という可愛らしい名を冠らせたかと詮議すると、江戸時代にもやはりこれに能く似た感冒が非常に流行して、その時に誰かがお染という名を付けてしまった。今度の流行性感冒もそれから縁を引いてお染と呼ぶようになったのだろうとある老人が説明してくれた。
[中略]
既にその病がお染と名乗る以上は、これに着かれる患者は久松でなければならない。そこでお染の闖入を防ぐには「久松留守」という貼札をするがいいということになった。新聞にもそんなことを書いた。勿論、新聞ではそれを奨励した訳ではなく、単に一種の記事として昨今こんなことが流行すると報道したのであるが、それがいよいよ一般の迷信を煽って、明治23、4年頃の東京には「久松留守」と書いた紙札を軒に貼付けることが流行した。中には露骨に「お染御免」と書いたのもあった。
24年の2月、私が叔父と一所に向島の梅屋敷へ行った、風のない暖い日であった。三囲の堤下を歩いていると、一軒の農家の前に17、8の若い娘が白い手拭をかぶって、今書いたばかりの「久松るす」
という女文字の紙札を軒に貼っているのを見た。軒の傍には白い梅が咲いていた。その風情は今も眼に残っている。
その後にもインフルエンザは幾度も流行を繰返したが、お染風の名は第一回限りで絶えてしまった。
ハイカラの久松に着くにはやはり片仮名のインフルエンザの方が似合うらしいと、私の父は笑っていた。そうして、その父も明治35年にやはりインフルエンザで死んだ。

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久松留守(ひさまつるす)
 
 
「久松留守」または「久松るす」の貼り紙は
風邪除けのお札のことです。
家の者が風邪を引かないようにと、
この文字を半紙に書いて
お札のように玄関や軒下に貼り付けました。
この意味は、お染と久松の恋の物語に
端を発しています。
 
「お染久松」とは?
 
「お染久松」(おそめひさまつ) とは、
身分違いの恋に落ちた
豪商の娘・お染と丁稚の久松が
その恋は叶わず心中した事件を
四世・鶴屋南北 (つるやなんぼく) が描き、
文化10(1813)年3月に初演されると
「誰でも知っている」というくらい大ヒットし、
現在に至るまで上演され続けている演目です。
 
 
質店「油屋」の娘・お染と丁稚の久松の道ならぬ恋を主軸に、名刀「牛王吉光」(ごおうよしみつ)
その折紙(鑑定書のこと)の紛失騒動が絡み、
人間の欲望が渦巻く世界が展開される世話物です。
主役のお染を演じる女形が、
お染・久松・お光・竹川・小糸・お六・貞昌の7つの役を
「早替わり」するのが売りの演目なので、
通称「お染の七役」(おそめのななやく) と呼ばれて
います。
  
お染と久松は恋人同士なので、
『お染さんが愛した久松さんは留守にしていて、
 この家にはいませんよ!
 だから家に入って来ないで下さいね!」
という意味で魔除けのお札として
「久松留守」と書かれた貼紙を
玄関に貼ったのです。
 

その他の「はやり風邪」の呼び名

稲葉風(いなばかぜ)
明和6(1769)年に流行した風邪。
 
お駒風(おこまかぜ)
安永5(1776)年に流行した風邪。
当時人気の高かった浄瑠璃『城木屋お駒』
通称『お駒才三』(おこまさいざ)
毒婦・お駒の祟りという事で
「お駒風」と名付けられました。
 
谷風(たにかぜ)
横綱・谷風 梶之助 (たにかぜ かじのすけ)
あまりも強くて、谷風自身が
「土俵上で俺を倒すことは出来ない。
 倒れているのを見たければ、
 俺が風邪に罹った時に来い」と
天明4(1784)年の風邪の流行時に
豪語したことから付いた名称です。
 
御猪狩風(おいかりかぜ)
歴史というものは皮肉なものです。
無敵の横綱であった谷風は、
先のように豪語した10年後の
寛政7(1795)年に流行った
質の悪い風邪「御猪狩風」のために、
亡くなってしまいました。
 
因みに、谷風が亡くなった1月9日は
「風邪の日」とされています。
 
お七風(おしちかぜ)
 
享和年間(1801-1804)に流行った風邪。
享和2(1802)年に長崎から始まって
全国へ広がりました。
江戸本郷の八百屋お七の放火事件の後で、
お七の小唄が流行っていたことから、
「お七風」と名付けられました。
他にも「アンポン風」とか「薩摩風」 とも
呼ばれています。
 
ネンコロ風
文化5(1808)年に流行った風邪。
「ねんねんころころ節」という小唄が
流行っていたため。
 
だんほう風
 
文政4(1821)年に流行った風邪。
当時人気だった小唄のお囃子に
「ダンホサン・ダンホサン」から
名付けられました。
 
アメリカ風
これ以降は、地域名が用いられ、
「薩摩風 (1824年)」、「津軽風 (1827年)」、
「琉球風 (1832年)」という呼び名が
つけられています。
 
そして安政元(1854)年に流行った
「アメリカ風」は、
嘉永6(1853)年の「ペリーの来航」と
翌年の「日米和親条約」の締結により
日本が開国した結果、持ち込まれたものと
思われた結果の命名と言われています。
 
江戸時代に名称で呼ばれた
はやり風邪一覧
和暦
(西暦)
感冒名  
明和6
(1769)
稲葉風 同年
日本で発生
明和6
(1771)
「江戸ッ子」の文献初出
安永5
(1776)
お駒風 1775
フランス発
天明4
(1784)
谷風 同年
日本で発生
寛政7
(1795)
御猪狩風 同年
日本
享和2
(1802)
アンポン風
薩摩風
お七風
1802
仏→独→英→日
文化5
(1808)
ネンコロ風 1807
英国発→日本へ
文政4
(1821)
ダンホウ風 同年
日本
文政10
(1827)
津軽風 1827
北米→露→シベリア
天保3
(1832)
琉球風 同年
スペイン発
安政元
(1854)
アメリカ風 1852年
世界各地で流行
 

江戸のはやり風邪は
どこから?

西から
 
風邪は寒い時期に罹りやすい病気なので、
印象としては寒い地域から広がり、
徐々に南下していくものだと思いがちですが、
江戸時代に流行った「風邪」の多くは、
西の方から徐々に江戸に向かっていった形跡が
多く見られます。
 
川柳にも
「はやり風邪十七屋からひきはじめ」
というものもあります。
「十七屋」(じゅうにちや) とは
江戸の日本橋・瀬戸物町にあった
飛脚問屋のことです。
上方から東海道筋へと伝染してきた風邪は、
江戸では当時のターミナルであった
飛脚問屋の「十七屋」で流行し、
あちらこちらへ風邪が運ばれる様子が
うたわれています。
 
海外から長崎に上陸
 
江戸時代当時の日本は鎖国をしていました。
当時唯一の外国に開かれた門戸であった
長崎だけが外国船を受け入れ、
取引をしていました。
 
長崎で水揚げされたものは
商人に買い取られ、
それが全国へと渡っていきます。
そして病気の発生・伝播の経路も同様に、
ほとんどの流行がまず長崎に発生し、
続いて中国地方から上方を経て関東に至り、
更に奥羽へと東進して行きました。