
『牧場の朝』(まきばのあさ) は、
昭和7(1932)年12月10日、に発行された
『新訂尋常小学唱歌(四)』に発表された
文部省唱歌の一つで、
現在も小学校学習指導要領において
第4学年の歌唱共通教材として
採用されている楽曲です。
昭和43(1968)年8月から9月、
NHK「みんなのうた」で、
東京少年少女合唱隊により
アニメーション付きで放送され、
平成18(2006)年には
「日本の歌百選」に選定されるなど、
時代を超えて、
子供から大人まで多くの人々に愛され、
今日まで歌い継がれています。
『牧場の朝』のモデルはどこ?
唱歌『牧場の朝』は、
作曲は43歳という若さでこの世を去った
東京音楽学校教授でバリトン歌手の
船橋栄吉 (ふなはしえいきち) によって
なされたことは分っていましたが、
実は、作詞者やモデルとなった場所については
長い間不明でした。
昭和48(1973)年6月18日、ラジオ番組において
作曲家の平井康三郎がそのことを語ると、
放送を聞いていた福島県鏡石町診療所長の
最上寛医師が独自に研究を開始しました。
まず資料集めに奔走した最上医師は、
朝日新聞出身の文人・
杉村楚人冠 (すぎむらそじんかん) の
『楚人冠全集』の中に載っていた
紀行文『ひとみの旅』の中に
明治43(1909)年、当時岩瀬牧場専務取締役だった
永田恒三郎氏に招かれて訪問した際の様子が
克明に記していることを確認。
更に大正時代に発行された小学校の教科書に
『牧場の暁』と題された
『ひとみの旅』と全く同じ文章が
掲載されていることを突き止め、
その文章が描く情景が
『牧場の朝』の歌詞と一致していることから、
『牧場の朝』のモデルは「岩瀬牧場」であり、
作詞者は「杉村楚人冠」と確信しました。
昭和57(1982)年8月29日の東京新聞サンデー版に
最上医師のこの研究の成果が掲載され、
現在では、これが定説となっています。
昭和58(1983)年、「岩瀬牧場」がある鏡石町は
『牧場の朝』のモデルであったことを記念し、
歌碑を建立しています。
歌碑正面の楽譜については
作曲者・船橋栄吉の長女で
武蔵野音楽大学教授の船橋豊子が、
譜面については平井康三郎が揮毫をしています。
また鏡石町では、唱歌「牧場の朝」は
町のシンボルソングとして長く愛されていて、
お昼や夕方、学校のチャイムなど様々な場面で
このメロディを聞くことが出来ます。
『牧場の朝』
初夏の牧場の朝の情景を
霧が立ち込める夜明け前の静けさから
動物達が活動を始めるまでの瑞々しい情景を
美しい日本語と軽快でリズミカルなメロディで
描いています。
歌詞
牧場の朝
作詞:杉村楚人冠
作曲:船橋栄吉
作曲:船橋栄吉
1.ただ一面に立ちこめた
牧場の朝の霧の海
ポプラ並木のうっすりと
黒い底から勇ましく
鐘が鳴る鳴る かんかんと
2.もう起き出した小舎小舎 (こやごや) の
あたりに高い人の声
霧に包まれ あちこちに
動く羊の幾群 (いくむれ) の
鈴が鳴る鳴る りんりんと
3.今さし昇る日の影に
夢からさめた森や山
あかい光に染められた
遠い野末に牧童の
笛が鳴る鳴る ぴいぴいと
1番:日の出前の霧が立ち込めた牧場
まだ太陽が出ていない時間に、
霧が立ち込めた広大な牧場には
ポプラ並木が存在感を放ち、
勇ましい鐘の音だけが響き渡っている様子が
描かれています。
2番:羊の群れがいる霧の牧場
仕事が始まる合図の鐘の音を聞き、
人々や動物達が行動を始めます。
ただ辺りはまだ暗く、また霧も相俟って
人々が動いているのが何となく分かる程度です。
その中から「高い人の声」が聞こえてきます。
また白い霧の向こうでは
はっきりと形は見えないものの、
羊がつけた所在を知らせる鈴の音が
「りんりん」と鳴り響いているので
羊達が歩き回っているのが感じられます。
3番:朝焼けに染まった牧場
いよいよ日の出を迎え、
牧場には暖かな太陽の光が差し込みます。
周囲に見える「森や山」に
徐々に光が当たっていく様子が
まるで「夢からさめた」ように見えます。
朝日の「あかい光」が当たっている
遠くに見える野の外れからは、
羊の群れを集めるための「牧童の笛」の音が
「ぴいぴい」と響き渡っています。
この笛の音が聞こえると、
いよいよ本格的に牧場の朝が始まったという
印象を受けます。
1番から3番目までの
歌詞全体を振り返ってみると、
歌詞の中に用いられた色が黒・白・赤と
色によって時間の経過を
見事に表現しているのが分かります。
そして鐘・鈴・笛の音が響き渡ることで、
実際の牧場の光景を知らない人でも
壮大で牧歌的な牧場の情景が
浮かんできます。
岩瀬牧場(いわせぼくじょう)
日本最初の国営牧場
「岩瀬牧場」は、福島県鏡石町から
須賀川市両自治体にまたがっている
日本最初の国営牧場です。
因みに書籍『牛乳と日本人』に、
「701年に制定された大宝律令では、
官制の乳戸という一定数の酪農家が
都の近くに設けられた」とあり、
これが日本の最初の牧場と考えられています。
また近代酪農の始まりは、享保12(1727)年、
8代将軍・徳川吉宗がオランダ人カピタンに
馬の医療用として牛乳の必要性を教えられ、
インドから白牛3頭を輸入して千葉県安房郡で
白牛を飼い始めたのが最初と言われています。
原野開墾
明治天皇は、明治5(1872)年〜明治18(1885)年、
6回に渡り長期地方巡幸を行ないました。
明治9(1876)年の第一回東北巡幸において、
鏡石・矢吹・須賀川に広がる約2,700haのも及ぶ
原野の開墾を指示したことが開拓の発端と
伝えられています。
東北巡幸での開拓の指示を受けた
伊藤博文内閣が欧州式大農法経営を視察し、
明治13(1880)年、現在の鏡石町に広がる
「六軒原」(ろっけんばら) と呼ばれた原野に
「宮内省御開墾所」が開設され、
翌明治14(1881)年から約300haの原野開拓に
入りました。
これが原野開発の礎となり、
士族授産事業の延長線上に位置づけられた、
日本初の西欧式牧畜・畑作農法の導入でした。
岸和田藩最後の藩主
明治23(1890)年7月、
宮内省より民間経営移譲の際に、
外務次官の岡部長職 (おかべ ながもと) 子爵が
敷地650haの御料地と設備、家畜一切を
拝借する形で農場経営を担うことになります。
岡部長職は、岸和田藩最後の藩主で、
廃藩置県後は藩地を去って上京し、
慶應義塾入塾後は福沢の斡旋を受けて
イエール大学とケンブリッジ大学へ留学。
帰国後は外務次官、貴族院議員、
東京府知事、司法大臣などを歴任しました。
順宜牧場
明治40(1907)年に牧場経営を株式会社に切替え、
「順宜牧場」(じゅんぎぼくじょう) を設立すると、
最初の事業としてオランダから
13頭の血統書付きオランダホルスタイン種牛と
農機具を輸入します。
この時、友好の印として贈られた
青銅の「オランダ鐘」が『牧場の朝』に登場する
鐘なのです。
鐘は、半世紀以上に渡って、朝・昼・晩と
牧場作業の始まりと終わりを告げていましたが、
ヒビが入ったため引退し、
現在は、牧場の歴史資料館に保存されています。
平成12(2000)年には、鏡石町文化財に指定されて
います。
明治44(1911)年、「順宜牧場」から
「日本畜産株式会社岩瀬牧場」に改称された後、
現在の「岩瀬牧場」へと引き継がれました。
現在の岩瀬牧場
現在「岩瀬牧場」は観光牧場として整備され、
ミニ動物園やフラワーガーデン、乗馬、
体験農場等を併設した私営の観光牧場となり、
休日は多くの家族連れで賑わっています。
また場内には開墾当時を偲ぶ牛舎や
旧事務所、とうもろこし乾燥舎などが
昔と変わらない姿で残っている他、
サイロや牛乳運搬のトロッコなども
大切に保存され、
日本の酪農の歴史を今に伝えています。
・住 所:〒969-0401
福島県岩瀬郡鏡石町桜町225
福島県岩瀬郡鏡石町桜町225
・TEL :0248-62-6789
・MAIL:iwasefarm@gmail.com
・駐車場 :無料500台
・営業時間:AM9:00〜PM4:00
・入場料金
おとな(中学生以上):500円
子ども(小学生以下):300円
3才児未満 :無料
作詞 杉村楚人冠
杉村楚人冠 (すぎむらそじんかん) は、
明治5(1872)年に現在の和歌山市に生まれ、
本名は広太郎と言います。
上京して、「英吉利法律学校 (現・中央大学)」や
明治から昭和にかけて最も有名であった
私立英語学校の一つ「国民英学会」に学びますが病気のため帰郷し、
「和歌山新報」の主筆として健筆を振う他、
仏教界革新を志す新仏教運動を展開しました。
明治32(1899)年には米国公使館の通訳となって、
この頃から「楚人冠」と号するようになります。
「楚人冠」の由来は、
『史記』の「項羽本紀」に登場する故事
「沐猴にして冠す」(もっこうにしてかんす) に
由来しています。
秦の首都・咸陽を制圧した際、
項羽が財宝や宮殿を焼き払い、
故郷の楚に帰ろうとしたことを聞いた人が、
「楚の人間(=項羽のこと)は
沐猴(=猿)に冠をかぶせたようなものだ
(見掛け倒しで天下を治める器ではない)」と
陰口を叩いたエピソードから、
「外見や衣服は立派でも中身がない者」、
更には「悪い勢力に加担して権勢を得る者」
の例えとして、現在も使われる言葉です。
なおこの侮辱を聞きつけた項羽は激怒し、
その者を釜茹での刑にして処刑したとされて
います。
当時の公使館の職員は皆、
シルクハットを常用していましたが、
シルクハットを入れた箱をよく間違えるため、
その目印として「自分のような野人が
シルクハットを被っているのは滑稽だ」
という意味で、「楚人冠」と記したそうです。
明治36(1903)年に東京朝日新聞に入社。
明治40(1907)年に伏見宮貞愛親王の渡英に際し、
ロンドンへ特派。
この時の滞欧日記「随輿記」を連載すると
「新聞記者の目と文人の手を持った作品」と
評価されたことから、
楚人冠の名が世に知られるようになりました。
明治42(1909)年には、南方熊楠が訴えた
「神社合祀反対運動」を
中央紙として初めて取り上げたことから、
熊楠の活動が広く知られる契機となりました。
明治39(1906)年より、政府は国家神道の強化、
神社財政の安定化、行政整理などを目的に、
全国の小規模な神社を強制的に大きな神社へ
統合する政策を推進したことから、
約20万社あった全国の神社の約3分の1が
廃社・取り壊されました。
それに対し、神社が地域の歴史や
自然環境と深く結びついているとして、
各地で激しい反対運動が起き、
その中心人物が南方熊楠でした。
大正13(1924)年7月1日、米国で
日本からの移民を禁止する条項が含まれていた
「新移民法」が施行されると、
「英語追放論」と題する一文を掲載して、
同法を痛烈に批判しました。
海外での知見を生かし、
日本初の調査部設置、日本初の縮刷版の発行、また記事審査部を設置して
読者の苦情処理にあたるなど、
日本の新聞界の発展に先鞭をつけました。
また『アサヒグラフ』の創刊に関わった他、
『最近新聞紙学』『新聞の話』『新聞紙の内外』など、新聞に関する著作を数多く発表し、
昭和12(1937)年には、多数の随筆などを収録した
『楚人冠全集』が刊行されました。
関東大震災後、東京・大森から
千葉県我孫子市に移り住み、この地を舞台に、
名随筆集『湖畔吟』などの作品を著した他、
俳句結社「湖畔吟社」を組織して
地元の俳人の育成に努めたり、
「我孫子ゴルフ倶楽部」の創立に尽力したり、
『アサヒグラフ』で手賀沼広く紹介したりと、
我孫子の発展に大いに貢献しました。
新聞の発展向上に大きな足跡を残した
杉村楚人冠は、
昭和20(1945)年10月3日死去、享年73歳でした。
なお、「岩瀬牧場」では「楚人冠ヨーグルト」が
販売されています。
「楚人冠ヨーグルト」は、
地元の旅館「八幡屋」のオンラインショップで
購入することが出来ます。
