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「江戸紫に京紅」(えどむらさきにきょうべに)

「江戸紫に京紅」(えどむらさきにきょうべに)とは、
「紫染」(むらさきぞめ)は江戸が優れ、
「紅染」(べにぞめ)は京都が優れているという
ところからの表現です。
 
 
「江戸紫」は、江戸時代の流行色のひとつで、
歌舞伎『助六』で市川團十郎が身に付けた
鉢巻の色としても有名な「紫色」です。
江戸時代、武蔵野に自生する「紫根」を使い、
江戸で染められた鮮やかな青みの紫のことです。
 

江戸紫江戸むらさき
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一方、京都で染めた「紫」は
「京紫」(きょうむらさき)と言い、
古から伝わる正統的な紫根染めの
赤みがかった紫色をしています。
「京紫」が伝統的な紫を受け継ぐ色なので
「古代紫」と呼ばれるのに対し、
「江戸紫」は江戸時代当時の今風の色なので
「今紫」とも呼ばれました。
 

京紫きょうむらさき
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一方「京紅」(きょうべに)は、
一般の伝統色にはありませんが、
平安時代から京都で使われてきた
赤みを帯びた紫の「京紫」より
更に「紅」を濃くした「紅色」です。
 

くれない
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「京紅」の原料は、キク科ベニバナ属の
一年草の「紅花」です。
 


 
紅花から抽出された色素は
古代より世界中で用いられ、
古代エジプトでは紅花で染めた布が発掘され、
メソポタミアの遺跡でも紅花の種子が
見つかっています。
日本には、シルクロードを経て3世紀頃に渡来し
平安時代に入ると日本各地で盛んに栽培された
と言われています。
 
江戸時代には山形県の最上川流域が
紅花の一大産地となり、
全国の生産量の約60%を占める勢いでした。
 
 
この紅花は「最上紅花」(もがみべにばな) と呼ばれ、
「紅餅」に加工したものを
酒田から船で最上川を下って京や大阪へと運び、
染料や口紅・頬紅などの化粧料、生薬などに
利用されました。
 
 
「紅花」は元々黄色い花で、
黄色色素の方が多く、
赤色色素はたった0.5%しかないことから、
非常に高価で、「紅一匁 金一匁」という
言葉が生まれるほどもてはやされたとそうです。
 
 
そのため「紅染め」は江戸時代には何度も
「奢侈禁止令」などにより禁制とされ、
それでも紅色系の色を欲した人々によって
「甚三紅」(じんざもみ)などの
「紅」を使わない色が生み出されました。
 

甚三紅じんざもみ
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「甚三紅」(じんざもみ)とは
微かに黄みがかった中程度の紅色。
「紅花」を使わず、「茜」または「蘇芳」で
染めた伝統色で、江戸時代には女性の衣服の
胴裏に用いられていたそうです。
色名の「甚三」は、茜から紅の色を作り出した
京都長者町の桔梗屋甚三郎の名からとったもの
です。
 
 
紅花商人は多大な利益を手にしました。
山形から「紅餅」を京へ出荷し、
京からの帰り荷として
古着、塩、魚、お茶などを持ち帰って商うと
いうこの商売は、
行きで儲かり、帰りでも儲かるとのことで、
「ノコギリ商売」と呼ばれました。
 
 
特に紅花の流通や貸金業で巨額の富を築き、「紅花大尽」と呼ばれた尾花沢の鈴木清風は、芭蕉とも親交のあった俳人でもありました。
 
- 清風伝説 -
鈴木清風(1651-1721)は、本業は「島田屋」という商家の三代目で「紅花大尽」と呼ばれる程の
豪商でした。
元禄11年の夏、紅花の商いに江戸に上った清風を
江戸の商人達は、清風を田舎商人と甘く見て
「不買同盟」を結んで妨害したことから、清風は
智略でこれを突破、三万両の利益を得ました。
そして「尋常の商売で得た金ではない。
きれいさっぱり使い切る」と言って、
吉原の大門を3日3晩閉め切って遊女達に休養を
与えたそうです。