その年に最初に見る蛍を
「初蛍」(はつぼたる)と言います。
初蛍(はつぼたる)
初蛍は、初めてその年に見られる蛍のことを
「初蛍」(はつぼたる)と言います。
気象庁のデータによると、
「ほたるの初見」は、
3月下旬から沖縄地方で始まり、
5月20日に九州地方中部、四国地方南部、
5月31日に九州地方北部、中国地方南部、
四国地方北部から近畿地方の一部、
6月10日に中国地方北部、近畿地方から東海地方、
関東地方南部を結ぶ地域に達します。
6月20日に北陸地方、
7月下旬まで東北地方を北上するようです。
気象庁では、昭和28(1953)年から
全国各地の気象台において
気候変動や都市化の影響などを知るために
植物34種目、動物23種目を対象に
その様子を観測してきましたが、
令和2年11月10日に生物季節観測を見直すとし、
令和3(2011)年より動物の観測を完全に廃止し、
また植物の観測も大幅に縮小しました。
七十二候「腐草為蛍」
(くされたるくさほたるとなる)
二十四節気「芒種」(ぼうしゅ)の次候は
「腐草為蛍」(くされたるくさほたるとなる) です。蛍は、梅雨の始め頃に羽化し、
その後、暑くなり湿気で蒸れて
腐りかけた草(腐草=朽草)の下で
明かりを灯し始めます。
蛍
「蛍」(ほたる) はホタル科の甲虫の総称で、
世界には約2000種が分布しています。
うち日本には約50種類が生息しています。
「蛍」と言えば
「光る虫」というイメージがありますが、
「よく光る」種は全体の3分の1程で、
ほとんどは「発光しない」か「非常に弱い光」なのだそうです。
また「蛍」は水辺にいるイメージもありますが、
「蛍」のほとんどは幼虫の時から森や林に棲む
「陸生ホタル」(りくせいほたる)で、
幼虫の時からが水中で過ごす「水生ホタル」は世界で約10種程しかいません。
そのうちの3種、「ゲンジボタル」「ヘイケボタル」
「クメジマボタル」が日本にいます。
蛍の語源
「蛍」(ほたる)の語源
「蛍」(ほたる)の語源には諸説あり、
江戸時代、貝原益軒は『大和本草』の中で、「ホタルとは火が垂れる(火垂る)という
意味ですよ」と記しています。
他にも「火照る」「星垂る」などがあり、
いずれも蛍の特徴である「光」に関連しています。
「蛍」の漢字の語源は?
「蛍」は、古い旧字体では「螢」と書きます。
「火が2つにウ冠」の部分は、
「篝火」(かがりび)を意味するそうです。
やはり元々日本人は「蛍」を見て、
火をイメージしていたのですね。
「蛍」という語の初見
「蛍」という文字が最初に登場するのは、
720年に作られた『日本書記』の巻二です。
天照大神は孫である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を
葦原中国の主にしたいと思ったけれど、
そこには「彼地多有蛍火之光神及蠅聲邪神」
(蛍火のように光る神や蠅のように騒がしい
よこしまな神がいる)と記されています。
これを見ると、古代は、
「蛍」にあまり良い印象を
持っていなかったように思われます。
古代人にとって、漆黒の暗闇が広がる夜は、
魑魅魍魎が蠢く恐怖の時間だったのでしょう。
そこに青白く光り、
しかも燃えない冷たい火を放つ蛍を、
まさに邪悪な神だと感じたのでしょう。
我が国最初の歌集『万葉集』には
全4516首の中で「蛍」を詠んだのは
わずか一首だけでした。
この月は 君来まさむと
大船の 思ひ頼みて
いつしかと 我が待ち居れば
黄葉の 過ぎてい行くと
玉桙の 使の言へば
蛍なす ほのかに聞きて
大地を ほのほと踏みて
立ちて居て ゆくへも知らず
朝霧の 思ひ迷ひて
丈足らず 八尺の嘆き
嘆けども 験をなみと
いづくにか 君がまさむと
天雲の 行きのまにまに
射ゆ鹿の 行きも死なむと
思へども 道の知らねば
ひとり居て 君に恋ふるに
音のみし泣かゆ
《意訳》
今月こそは あなたがお帰りになるだろうと
大船に乗ったつもりで安心して待ってたのに
「あのお方は、紅葉が散るように亡くなってしまわれました」と、まるで蛍がちらっと光ったような言い方で使いの人が言いました。
そんな、蛍火のような、ぼんやりとしたこと
だけで、どうして信じられるでしょう。
大地に地団駄踏んで、立ったり座ったりして
途方に暮れてしまいます
「蛍」は「ぼんやりとした」というような
意味で使われています。
怪しいから頼りない、ぼんやりしたものと
捉えられているようですね。
日本文学にしばしば登場する蛍
「蛍」を風流なもの、情緒のあるものとして
愛でるようになったのは平安時代からです。
平安貴族は蛍を歌や文章に取り上げました。
『伊勢物語』を始めとして、
『宇津保物語』『枕草子』『源氏物語』などに
重要な存在として、続々と登場してきます。
蛍見(ほたるみ)
蛍を観賞する風習も、このあたりから
楽しまれているものだったようです。
清少納言は『枕草子』の
「春はあけぼの」に続いて
「夏は夜。月の頃はさらなり。
闇もなほ、蛍の多く飛びちがひたる。
また、ただ一つ二つなどほのかにうち光りて
行くもをかし。雨などふるもをかし」と
書いています。
紫式部も『源氏物語 第25帖 蛍』第四段の中で、
光源氏が袋に隠し入れておいた蛍を一斉に放ち、
暗闇の中に突然飛び交う光の乱舞する様子を
描いていま す。
蛍合戦(ほたるがっせん)
水辺の草むらに光を点滅させながら飛ぶ
蛍の命は僅か2週間と言われています。
その短い期間に生殖相手を求めて乱舞する様を
古人は「源平の戦い」に例えて、
「蛍合戦」(ほたるがっせん)と呼びました。
宇治の蛍合戦
宇治川のほとりは、
源氏蛍、平家蛍、姫蛍の生息に恵まれ、
また宇治の蛍は他所より一回り大きく
光が殊更明るいことから、
古くから蛍の名所がみられ、
夏は「蛍狩り」(ほたるがり)が盛んでした。
この宇治橋の付近は、源氏と平家による
「宇治川の戦い」が激しかったところで、
後に源氏蛍、平家蛍が交尾の為に入り乱れて
乱舞する様はまるで合戦のようだったので、
「宇治の蛍合戦」と称されました。
この「宇治川の戦い」で敗れ、
南都に逃れる途中に、
陰暦5月26日に平等院で自刃した
源頼政(みなもとのよりまさ)の霊が蛍になり、
「ゲンジホタル」の語源とも言われています。
岩鼻の蛍合戦
(いわはなのほたるがっせん)
長野県上田市と埴科郡坂城町との境付近に、
千曲川を挟んで「半過岩鼻」(はんがいわばな)と「下塩尻岩鼻」(しもしおじりいわばな)の大岩壁が
向かい合ってそそり立つ名勝があります。
ここは景観が素晴らしいだけでなく、
ここ特有の珍しい
動植物の生態や分布が見られることから、
長野県では県天然記念物に指定し、
その保護に努めています。
江戸時代の地誌『信濃奇勝録』巻之五
「岩端蛍」(いわばなのほたる)の項に、
最盛期を迎える夏至の3夜は
「蛍合戦」と呼ばれ、
群れをなして飛び交う蛍の数は
信州一と言われたとあります。
現在、岩鼻では、農業用水路で
「ホタルの里」復活に向けての活動が行われ、
年ごとにその成果が現れているようです。
蛍は人間の霊魂の姿
「蛍」が人間の霊魂の姿であるという
言い伝えは多くあります。
『後拾遺集』の和泉式部の作品
「もの思へば沢の蛍のわが身より
あくがれ出づる魂かとぞ見る」
あくがれ出づる魂かとぞ見る」
物思いをしていると、沢を飛び交っている蛍の火も
自分の身から離れ、彷徨い出た魂ではないかと
見えたことだ。
自分の身から離れ、彷徨い出た魂ではないかと
見えたことだ。
『古今和歌集』の読み人知らずの作品
「明けたてば蝉のをりはへ泣き暮らし
夜は蛍の燃えこそわたれ」
夜は蛍の燃えこそわたれ」
夜が明ければ蝉のようにずっと泣き暮らして、
夜になれば蛍のように恋心が燃え続けます。
夜になれば蛍のように恋心が燃え続けます。
『伊勢物語』の45段には次の歌が出てきます。
「ゆく蛍雲の上までいぬべくは
秋風吹くと 雁に告げこせ」
秋風吹くと 雁に告げこせ」
空に飛び上がってゆく蛍よ。
雲の上まで行くことができるのならば、
秋風が吹いていると雁に告げてくれ
雲の上まで行くことができるのならば、
秋風が吹いていると雁に告げてくれ
それなりに身分があり大事に育てられた娘が、恋をしたのですが、思いを口に出せないまま
恋わずらいし、床についてしまいました。
それを知った娘の親が相手の男に知らせて、
男は急ぎ駆けつけてくれたものの、
娘は既に亡くなっていました。
男はそのまま喪に服し、宵には亡くなった女を慰めるために管弦を奏でました。
時は水無月(陰暦六月)の末。
日中は暑い夏の日ですが、
夜が更けると涼しい風が吹いてきます。
男は夜に飛ぶ蛍を眺めて
天に行ってしまった娘への言伝を蛍に頼み、
雁に頼りを託して欲しいという意味を込めて、
この歌を詠みました。
ところで「雁」は、蘇武の故事から、
遠い人に頼りを伝えてくれるという表現に
用いられます。
蘇武の故事とは
前漢の蘇武が匈奴に囚われた時、
雁の足に手紙をつけて都に届けたという
「漢書‐蘇武伝」の故事から、
便りを伝える使いとしての雁。