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唱歌『蝶々(ちょうちょう)』

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日本人なら、乳児から高齢者まで
誰もが知っている『ちょうちょう(蝶々)』。
この昔から愛されてきた春の歌は、
明治時代に日本で最初に作られた
「唱歌」のひとつで、今なお日本の子供達の
音楽の扉になっています。
 
 

唱歌『蝶々(ちょうちょう)』が
生まれるまで

明治政府、
音楽の授業「唱歌」を採用
 
明治に入り、明治5(1872)年に
「学制」が発布されると、
小学校では現在の「音楽」に当たる「唱歌」、
中学校では「奏楽」の時間が設けられましたが
当時は「音楽」を教えられる教師もおらず、
十分な音楽教材や設備もなかったため、
実際に行われることはありませんでした。
 
米国に伊澤修二を派遣
 
「学制」発布から2年後の明治7(1874)年に、
米国の教育体制を学ぶべく、
師範学科取調員の伊澤修二 (いさわしゅうじ)
米国に派遣されました。
 
伊澤修二は、江戸時代後期の嘉永4(1851)年に、
信濃国高遠藩(現在の長野県伊那市)で
下級武士の家の長男として生まれました。
 
郷里の藩校で和漢の学を修めた後上京し、
20歳の時に大学南校(現・東京大学)に
高遠藩の貢進生として学び、文部省に奉職し、
明治7(1874)年に愛知師範学校長に就任しました。
 
 
そんな折、西洋の教育書の中に
「歌うことに動作をつけて行わせることは、
 子供活動性を増すことである」
という一文を見つけたことから、
幼児の「遊戯唱歌」を実践をしてみました。
 
すると大いにその効果が認められたので、
時の文部省に建議文を提出。
それが当時の文部省に在職していた
米国人モルレーの目に留まり、
彼の推薦で明治8(1875)年に
米国に留学することになりました。
 
実はこの時、「遊戯唱歌」に利用したのは、
尾張地方に伝わっていたわらべ唄の歌詞を元に
野村秋足が作詞した『胡蝶』で、
これが後の唱歌『蝶々(ちょうちょう)』の
歌詞の原型となりました。
-『胡蝶』の歌詞 -
 蝶々蝶々 菜ノ葉ニ止レ
 菜ノ葉ニ飽タラ 桜ニ遊ヘ
 桜ノ花ノ 栄ユル御代ニ 
 止レヤ遊ベ 遊ベヤ止レ
 
伊澤修二の米国での留学先は、
米国を代表する教師養成機関である
米マサチューセッツ州にある
ブリッジ・ウォーター師範学校
(現・ブリッジウォーター州立大学)でした。
ここで2年間の教師養成プログラムを履修し、
ほとんどの科目は難なくこなせましたが、
日本と西洋では音階が異なるため、
音楽の授業だけが
どうしても上手くいきませんでした。
 
音楽教育家ルーサー・W・メーソンとの出会い
そんな伊澤に、初等音楽教育の専門家で
音楽教材の作成を手掛けていた
ルーサー・W・メーソン
(Luther Whiting Mason)が手を差し伸べ、
彼から歌の個人レッスンを受けました。
 
またメーソンと一緒に、日本人向けの
音楽教材の作成にも取り組みます。
ある時、メーソンが
日本の子供に合いそうな曲を選んで、
「西洋の歌に日本語の歌詞を付けてみる」
ように提案しました。
伊澤はこの時、愛知師範学校時代に作成した
「ちょうちょう」の歌詞を当てはめました。
これが今日、日本で歌われている
『ちょうちょう(蝶々)』が誕生した瞬間でした。
 
同地で音楽教育の重要性を知った伊澤は、
日本の学校教育に本格的に音楽を導入するため、
「日本の学校教育で歌う歌のための音楽を
調査するべき」との意見書を文部省に提出し、
3年間に及んだ米国留学を終え、帰国しました。
 
日本で最初の『小学唱歌集』出版
日本に帰国した伊澤は、米国で
最先端の教育法を学んだ貴重な人物として、
文部省推進の教育改革の主要メンバーとなり、
東京師範学校校長、体操伝習所主幹に就任し、
日本の近代的な学校教育構築に取り組みます。
 
明治12(1879)年、「音楽取調掛」が設置されると
伊澤は掛長に就任。
在米中に知ったメーソンを日本に招聘。
音楽教師・音楽家の養成を行うと同時に、
学校教育で歌うための歌「唱歌」の作成にも
取り掛かりました。
 
そして遂に明治14(1881)年に、
日本初の五線譜による音楽教科書
『小学唱歌集』初編を、
第2編を同16年に、第3編を同17年に
刊行しました。
 
『小学唱歌集』3編には、
全91曲が収められていて、
今日も愛唱されている『蛍(蛍の光)』、
『見わたせば(むすんでひらいて)』、
『霞か雲か』、『菊(庭の千草)』
そして『ちょうちょ』も含まれています。
 
その多くは、外国曲のメロディに
日本語の歌詞をつけた和洋折衷の楽曲で、
中には雅楽の楽人である伶人 (れいじん)
作曲と思われる曲も含まれています。
 
『小学唱歌集』初編
1 かをれ
2 春山
3 あがれ
4 いはへ
5 千代に
6 わかの浦
7 春は花見
8 鴬
9 野邊に
10 春風
11 桜紅葉
12 花さく春
13 見わたせば
14 松の木蔭
15 春のやよひ
16 わが日の本
17 蝶々
18 うつくしき
19 閨の板戸
20 蛍
21 若紫
22 ねむれよ子
23 君が代
24 思ひいづれば
25 薫りにしらるる
26 隅田川
27 富士山
28 おぼろ
29 雨露
30 玉の宮居
31 大和撫子
32 五常の歌
33 五倫の歌
 

唱歌『蝶々(ちょうちょう)』

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『蝶々(ちょうちょう)』は、明治14(1881)年、
文部省発行『小学唱歌集』初編に
「第十七 蝶々」の表題で掲載されました。
 
原曲
唱歌『蝶々(ちょうちょう)』の原曲は、
18世紀初頭頃成立とされる「ドイツ民謡」です。
ただ刊行当時は、
「スペイン民謡」とされていました。
というのは、伊澤修二が昌平館で開催された
大演習の『唱歌略説』において、
「楽譜ハ出所ヲ詳ニサザレドモ
 西班牙ヨリ伝来シテ
 諸邦ニ行ハレタルモノナルベシトイヘリ」
と執筆していたためです。
 
この曲は、メロディが単純で歌いやすいため、
色々な国で色々な歌詞が付けられています。
 
本場独国では、『狩りの歌(Fahret hin)』
『五月は全て新しい
 (Alles neu macht der Mai)』
『幼いハンス(Hänschen klein)』など、
いくつかの歌詞があります。

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米国では、19世紀頃に、
『Boat song』または『Lightly Row』として、
歌われていました。

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『蝶々(ちょうちょう)』の
戦前までの歌詞

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一. (野村秋足作詞)
蝶々 蝶々 菜の葉に止れ
菜の葉に飽たら 桜に遊べ
桜の花の 栄ゆる御代に
とまれや遊べ 遊べやとまれ
 
二. (稲垣千頴作詞)
起きよ 起きよ ねぐらの雀
朝日の光の さきこぬさきに
ねぐらを出でて 梢に止まり
遊べよ雀 歌えよ雀
 
三. (作詞者不明)
蜻蛉(とんぼ) 蜻蛉 こちきて止まれ
垣根の秋草 いまこそ盛り
さかりの萩に 羽うち休め
止まれや止まれ 休めや休め
 
四. (作詞者不明)
(つばめ) 燕 飛びこよ燕
古巣を忘れず 今年もここに
かへりし心 なつかし嬉し
とびこよ燕 かへれや燕
 
何と、4番まで歌詞があります。
また1番の主人公は「蝶々」ですが、
2番は「雀」、3番は「蜻蛉」、4番は「燕」に
変わってしまっています。
「蝶々」が主人公の1番の歌詞も
現在、私達が知っているものとは、
ちょっと違いますね。
一番の歌詞は、尾張地方のわらべ唄を元に、
伊澤が愛知県師範学校在職中の同僚であった
野村秋足 (のむらあきたり) が作詞をしました。
現在の「桜の花の、花から花へ」の部分は、
「桜の花の 栄ゆる御代に」となっています。
「天皇陛下が治めるこの世よ、どうぞ栄えあれ。
 日本の花、桜とともに」
という思いが綴られていました。
 
 
二番の作詞は稲垣千頴 (いながきちかい) です。
東京師範学校教諭として和文教育を行い、
音楽取調掛を兼務して『蛍の光』など、
多数の唱歌を作詞しました。
 
 
三番と四番の歌詞は、明治29(1896)年に、
文部省の検定を受けた
民間の「教育音楽講習会」が作成した教科書
『新編教育唱歌集』から追加されました。
誰が作詞したのかは判っていません。
 
 
それぞれ作詞家の違う4つの歌詞が合わさって
1つの歌になった『蝶々』ですが、
「蝶々」で春の訪れを知らせ、
その後やってくる夏の朝を「雀」で表現し、
秋は、当然、「赤蜻蛉」、
そして冬は、早く寒い冬から春に変わって、
「燕」よ、いつもの年と同じように
我が家の古巣に帰っておいで!と
日本の美しい四季を表現して、
それを子供達に教える唱歌になっていました。
 
 
昭和22(1947)年以降の歌詞
ちょうちょう ちょうちょう
菜の葉にとまれ
菜の葉にあいたら 桜にとまれ
桜の花の 花から花へ
とまれよ遊べ 遊べよとまれ
なのはにとまれ?
 
戦後の昭和22(1947)年に文部省が発行した
『一ねんせいのおんがく』で
現在私達がよく知っている歌詞に
変更されました。
初版の1番の「栄ゆる御代に」は
皇室を称えるような歌詞ということから
敬遠され、
2番以降は『蝶々』というタイトルにそぐわない別の生物が出てきていることを理由に
省略されてしまいました。
 
そして今日では作詞者不明 となっています。
 
「菜の花」ではなくて、
「菜の葉」に止まる?
 
ところで唱歌『蝶々(ちょうちょう)』では、
「菜の花」ではなくて
「菜の ”葉” にとまれ」となっています。
何だが不思議な気もしますが、
この「菜の葉にとまれ」という文句は、
既に江戸時代から全国に広まっていて、
古くから「菜の葉」で通用していたのです。
 
江戸時代のわらべ唄『蝶々ばっこ』には、
「蝶々ばっこ 蝶々ばっこ 菜の葉に止まれ
 菜の葉に飽いたら この手に止まれ」
となっています。
なお「ばっこ」は、「毛虫」の方言とか、
「小さな蝶々」という説があります。
 
明和9年の『山家鳥虫歌』でも、
「蝶よ 胡蝶よ 菜の葉に止まれ
 とまりゃ名がたつ浮名たつ」
となっています。
 
文政3年の『童謡古謡』も、
「蝶々とまれ 菜の葉に止まれ
 菜の葉がいやなら手に止まれ」です。
 
また伊澤修二が試みた「唱歌遊戯」に採用した
尾張地方に伝わるわらべ唄の歌詞も
「蝶蝶止まれ 菜の葉に止まれ
 菜の葉が枯れたら木の葉に止まれ」です。
このことから野村秋足は
一番の歌詞を創作したのではなく、
わらべ唄をアレンジしただけだったと言われ、現在の『蝶々(ちょうちょう)』の作詞家とは
されていないのかもしれませんね。
 

「ちょうちょ」?
「ちょうちょう」?

 
 
私達は、普段、「ちょうちょ」と言って、
「ちょうちょう」とはあまり言いませんね。
 
漢字では、「蝶」や「蝶々」と書きますので、「ちょうちょう」が正しい言い方だそうですが、
「ちょうちょう」の最後の音
「う」が言い難いので省略されて
「ちょうちょ」となったそうです。
 
文章の中では、
どちらを使っても構わないそうです。
 
 
ただ固有名詞の歌劇「蝶々夫人」は、
「ちょうちょう・ふじん」であって
「ちょうちょ・ふじん」ではなく、
また「ミヤコ蝶々」さんも
「ミヤコ・ちょうちょう」であって
「ミヤコ・ちょうちょ」ではありませんので、気をつけて使いましょう。
 
更に、学術的に昆虫を表す場合も
「チョウ」と書かなければいけないそうです。